原爆被爆者とは人だけではない。広島の報専坊に遺る被災樹木を調べてみた。 (2/5ページ)

心に残る家族葬



■原爆被爆後のイチョウの木と報専坊

広島、そして長崎の被爆樹木を精査し、記録をまとめた文筆家の杉原梨江子の『被爆樹巡礼 原爆から蘇ったヒロシマの木と証言者の記録』(2015年)によると、原爆投下後、遠くからでも目立つ、このイチョウの木を目印にして、「私の家族を弔ってもらえないでしょうか」と訪ねてくる人が日に日に多くなっていった。

当時住職を務めていた冨樫映雲さんはできる限りそこに出向き、葬儀を執り行った。そのあまりの忙しさに加え、原爆症の症状が出始めていた映雲さんは、原爆投下から1ヶ月後の9月7日に、「しんどくて、たまらん」とイチョウの木にもたれかかったまま、亡くなった。

もともとこのイチョウの木は、跡取りの長男・仰雲さんが生まれたことを記念して、植えられていたものだった。戦争中、仰雲さんは満州に出征しており、原爆に遭うことはなかったが、家族や親戚5人が犠牲になったという。驚くべきことに仰雲さんは、映雲さんが亡くなったちょうど1年後の9月7日に無事、故郷に戻ってきた。

■時は経ち、平成5年にイチョウの木に危機が訪れた

その後イチョウの木は立ち枯れることもなく、傷跡を残しつつも、いつの間にか新しい芽が出て、広島、そして日本の復興と共に歩んでいた。

しかし平成5(1993)年、台風19号が広島を襲った。その結果、寺内の墓石が風で飛ばされたり、木が倒れたりするなど、またも寺は「危機」に見舞われた。そこで、原爆五十回忌まで2年と迫っていたことから、本堂を再建することになった。しかも当時はバブル景気。土地を最大限利用し、多くの人が聴聞できるような、大きな本堂を建てよう。そのためにはイチョウは伐採するしかないという話が持ち上がった。

常々、「この木は私の誕生木だ」と語りつつ、大切にしていたイチョウのみならず、樹木を愛した仰雲さんは、かつての緑の風景を蘇らせようと、境内に小さな苗木をいくつもいくつも植えていた。時には木の剪定すら嫌がり、周囲がジャングルのようになっていた時期さえあった。そんな仰雲さんは、本堂の建て替えに伴うイチョウ伐採を断固反対し続けた。
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