すぐ先延ばししちゃう人必見!徳川家康のブレーン「林羅山」のごもっともな教訓に耳が痛い…

「ダイエットは明日から」
なんて迷言があるように、一念発起したまではいいけれど、なかなか踏ん切りがつかないまま、つい月日が過ぎてしまうことは多いもの。
そんな失敗は昔の人々も変わらなかったようで、今回は初志貫徹して学問を修めた江戸時代の儒学者・菅得庵(かん とくあん)のエピソードを紹介したいと思います。
得庵少年、学問を志す得庵は戦国末期の天正九1581年、播磨国飾磨郡蒲田村(現:兵庫県姫路市)で生まれました。本名は菅原玄同(すがわらの はるあつorげんどう)と言いますが、便宜上ここでは得庵で統一します。

林羅山。Wikipediaより。
さて、得庵少年はある年の大晦日、儒学者として高名な林羅山(はやし らざん)に弟子入りを申し込みました。
「……それでは先生、どうか来年からご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます……」
来年とは言っても大晦日ですから、要するに明日からと同じ意味なのですが、それを聞いた羅山は得庵をこう諭しました。
「なぜ来年からなどと言うのだ。昔から『少年老いやすく、学成りがたし』と言うではないか。ひとたび男子が志した以上、今すぐにでも始めようではないか」
とかく日本人は「キリの良さ」を求めがちですが、それで決断や実行を先に延ばし続け、気づいたら何も成し遂げないまま年齢ばかり喰ってしまった……そんな先人たちの後悔を、羅山はたくさん見て来たのでしょう。

「はい!よろしくお願いいします!」さっそく張り切る得庵少年(イメージ)
そんな教訓に心を打たれた得庵少年は、さっそく羅山による年越しオールナイトマンツーマン講座を受けることとなったそうです。
徳川家康のブレーンとして活躍した林羅山を一晩じゅう独り占めしてしまうなんて、至れり尽くせりですね。
……ところで、お互いに年末年始の予定は大丈夫だったのでしょうか。
儒学者として大成するも……さて、羅山の期待に応えて勉学に励んだ得庵は、後に羅山と共に京都の儒家・藤原惺窩(ふじわらの せいか)の門下で頭角を現し、世の人々から「惺窩門四天王」に数えられるほどの博識を評されました。
※四天王のメンバーは林羅山・堀杏庵(ほり きょうあん)・那波活所(なば かっしょ)・松永尺五(まつなが しゃくご)とも言われ、得庵はこの松永尺五とポジション的に互角だったようです。
ところで呼び名の「菅得庵」ですが、当時の儒学者界では名前を中国風にすることが流行っており、元の名字である菅原を略して菅と名乗りました。また、成人男子が本名(諱・忌み名)の代わりに名乗る字(あざな)も子徳(しとく)と称し、こちらも中国風にしています。
そんな得庵ですが、歳を重ねるにつれ謙虚さを忘れてしまったようで、48歳を迎えた寛永五1628年6月14日。自分の弟子である安田安昌(やすだ やすまさorあんしょう)に斬り殺されてしまいました。

「覚悟!」得庵を斬り殺す安田安昌(イメージ)
得庵は己が才智をひけらかして人を馬鹿にし、弱い者を虐めるところがあったようで、その怨みによる犯行と見られています。
得庵の追悼文を記した羅山は、まだまだこれから開花したであろう才智を惜しみ、また、かつて学問を志して自分を訪ねて来た純真な少年時代を懐かしみ、涙したことでしょう。
「志した時が始めどき」
「成功して驕らず(失敗して腐らず)」
そんな教訓を、得庵の人生から学ばされます。
※参考文献:
『講談社の絵本 竹取物語 かぐや姫』大日本雄弁会講談社、昭和十四1939年3月5日
『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社、平成六1994年11月
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