決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】 (3/4ページ)
昔、八幡殿(はちまんどの)の後三年の軍(いくさ)に、金沢(かねざわ)の城(じょう)責(せめ)られしに、鳥海(とりのうみ)の館(たて)落させ給(たまい)ける時、生年(しょうねん)十六歳にて、軍(いくさ)の前に立(たち)て、左(※3)の眼(まなこ)を射られ乍(ながら)答(とう)の矢を射て敵(かたき)を打取(うちとり)て、名を後代に留(とどめ)たる鎌倉の権五郎景政(ごんごろうかげまさ)が五代(※4)の末葉(まつよう)に、相模国(さがみのくに)の住人大庭平太景義、同(おなじく)三郎景親」
※『保元物語』白河殿攻メ落ス事 より
ここで言及されている八幡殿とは八幡太郎こと源義家(みなもとの よしいえ)を指し、その家人(けにん)として世に言う「後三年の役(永保三1083年~寛治元1087年)」に従軍、武功を挙げた鎌倉権五郎こと平景政(たいらの かげまさ)の子孫(末葉)である、と名乗っています。
このように、往時の武士たちは代々の家名(一族の名誉)を背負い、祖先や子孫たちに恥じぬ戦いや生き方を心がけたものでした。
ちなみに敵将の為朝は八幡太郎の子孫に当たり、かつて主従であった者の子孫同士が敵味方として戦場に相対することとなっています。
もっとも、平太と三郎が従っている義朝は為朝の兄であり、こちらも八幡太郎の子孫です。