「東洋のガラパゴス」小笠原諸島を大発見した戦国武将とその子孫のエピソード【後編】 (2/4ページ)
町奉行の大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみただすけ)は詮議の結果、享保十三1728年、宮内に対して実地検分のため渡航許可を与えます。
欣喜雀躍した宮内は、さっそく甥の小笠原長晁(おがさわら ながあき)を先遣隊に出すものの、船が難破して帰らぬ人となってしまいました。
それでもめげずに再渡航に向けて資金調達に励んでいた宮内ですが、享保二十1735年になって南町奉行所が渡航許可を取り消し。宮内は詐欺罪に問われて財産没収、重追放の刑が下されたのでした。
一度は聞き入れられた訴えが退けられた決定打は、宮内が証拠として提出した『巽無人島記』の記述。貞頼が発見したとされる無人島には延宝三1675年に幕府が調査団を派遣しており、その報告と内容が大きく異なる(父島の面積や、亜熱帯地域ではありえないオットセイの棲息など)ため、『巽無人島記』は宮内が捏造した偽書と断定。