平和の祭典の為に建てた明治神宮外苑競技場には軍靴の足音が響いた…「いだてん」第38話振り返り

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平和の祭典の為に建てた明治神宮外苑競技場には軍靴の足音が響いた…「いだてん」第38話振り返り

「いだてん」第38話「長いお別れ」が放送されました。

組織委員会の中心だった嘉納治五郎が亡くなり、田畑らはその意志を受け継いで必ずオリンピックを開催しようと努力しますが……。日中戦争が激化する中、オリンピックボイコットを正式に決定した国まで出てきます。また、新しい競技場を建てようにも、鉄鋼など資材があればまず戦略資材にまわさなければならない。

副島は「売国奴」と呼ばれる覚悟で開催権返上を決め、1940年の東京オリンピックは幻になったのでした。

一方、東京オリンピックが開かれたら出場するはずだった小松勝は、1943年の学徒出陣で徴兵され、満州へ渡ることになります。

明治神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会(1943年)

何の皮肉か、嘉納が平和の祭典オリンピックを開催しようと建てた明治神宮外苑競技場で、平和とはほど遠い出陣学徒壮行会が開かれ、2万5千人(正確な数は記録されていません)の軍靴の足音が響いたのです。

オリンピックで使われることがなかった明治神宮外苑競技場の歴史

「ここでオリンピックをやろう」と建設された明治神宮外苑競技場でしたが、結局ここでオリンピックの競技が行われることはありませんでした。

日本で初めての本格的な陸上競技場は、1915年から造営の計画がスタート。1922年に着工しますが、翌1923年9月1日の関東大震災で一時工事が中断されます。また、当時の物価の高騰のおかげでなかなか工事は進まなかったようです。

ですが、ドラマで描かれたように建設途中の競技場が被災者の収容施設となり、外苑バラックが建てられました。ドラマのように、実際この場所で復興運動会が開かれたかどうかは定かではありませんが、上野公園などでは慰安運動会が開かれており、また外苑バラックでも運動会をやったという説があるそうです。

その後、1924年にようやく完成。それからは年に一度は明治神宮競技大会が開かれるようになりましたが、1940年には「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会」が開かれ、いよいよスポーツの政治利用が色濃くなっていきます。

戦後は進駐軍によって「ナイルキニック・スタジアム」と改名され接収されますが、1952年に返還。オリンピック招致をめざし、布石となるアジア大会を開催するために外苑競技場の解体が決定。1957年に解体され、翌58年に「国立競技場」として生まれ変わりました。

スポーツの殿堂として

オリンピックこそ開かれることはありませんでしたが、日本初の本格的な競技場として、外苑競技場では多くのスポーツ大会が開かれました。

第7回明治神宮体育大会

明治神宮競技大会は競技場完成の1924年から1943年まで14回行われ、ドラマでも描かれた陸上競技、テニス、水泳をはじめ、野球、サッカー、ラグビー、バレーボール、バスケットボールなど外来のスポーツから、相撲、柔道、剣道、弓道など日本の伝統的なスポーツも行われています。

サッカーに関しては戦前の1927年にFIFAに加盟しており、外苑競技場でも国際試合が開かれています。戦後一時資格停止処分になったのち、1950年に再加盟。1954年に始めてワールドカップ予選に参加しますが、この年の日韓戦は外苑競技場で行われています。

後身となる国立競技場はサッカー、ラグビー、陸上競技の「聖地」となっていましたが、それは明治神宮外苑競技場から継承されたものだったようです。

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