比叡山から鎌倉新仏教の開祖が数多く生まれた理由とは

心に残る家族葬

比叡山から鎌倉新仏教の開祖が数多く生まれた理由とは

今年の9月、NHKの「ブラタモリ」で「比叡山~比叡山はなぜ“母なる山”になった?~」を2回にわたって放映していたので見た。ちなみに私は25年ほど前、比叡山を訪れた時、ここは「天台宗の総本山」だけでなく「日本の仏教の総本山」ではないのかというような印象を持った。

■そもそも比叡山が日本仏教の母山と言われる理由とは

理由は大講堂の脇道に比叡山で修行した鎌倉新仏教の開祖である法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)、一遍(時宗)などの大きな肖像画のパネルが建てられていたからだ。放送では各宗派が独自に作成して寄贈した開祖たちの木像が大講堂に祀られているところを紹介していた。なぜ比叡山はこのように多くの鎌倉新仏教の開祖を輩出したのだろうか。

■比叡山で最澄が開いた天台宗とは

比叡山は海抜848mの大比叡ヶ岳を頂点に、四明ヶ岳、釈迦ヶ岳、水井山の峰々が約20kmにわたって、京都と滋賀の県境に連なる山の総称で、724年の桓武天皇による平安遷都以来、都の東北に位置するところから、艮(うしとら)の鬼門を護る霊峰として崇められてきた。霊峰富士にも似た美しい山容は「都富士」の名で親しまれ、都の象徴的存在である。この比叡山の滋賀側の麓の坂本で生まれた最澄は東大寺で具足戒を受けた後、20歳の時初めて比叡山に上り「願文」で五つの誓いを立て修行に入った。その後、唐に渡り中国天台宗の天台教学とともに密教、禅、戒律を学び、法華円教、真言密教、達磨禅法、大乗菩薩戒の四宗融合を特徴とする総合仏教としての日本独自の天台宗を開いた。ただ密教に関しては不完全であったので、唐で密教を学んだ真言宗の開祖空海に教えを乞うている。

806年、天台宗は朝廷から2名の年分度者(国家で定めた得度僧)を認められ、奈良の南都六宗に並ぶ宗派として公認された。最澄は奈良仏教が仏教には声聞、縁覚、菩薩の三つの乗り物があり、菩薩に乗った人だけが成仏できるという三乗説をとっているのに対し、仏の教えは一つであり、すべての人はみな平等に仏の教えによって救われ成仏できるという一乗説を唱え、南都六宗の一つであった法相宗の徳一と激しく論争した。このように奈良仏教が自分のための行「自利行」であるのに対して、「自利行」とともに人々を救済する「利他」の精神を説くのが天台宗の教えである。最澄が目指した総合仏教教団天台宗の基本理念は一乗思想により四宗を「法華経」の教えと精神のもとで統一しようとするものであった。

それに対して真言宗や鎌倉時代に天台宗から派生していった諸宗派は単科仏教教団であった。密教に関しては真言宗に遅れをとった天台宗であったが、最澄没後、義真、円澄、円仁、円珍、良源、源信などの優れた後継者たちが教義や体制を整備し天台宗の確固たる基盤を確立したので、比叡山は日本最大の仏教教学の場となり「日本仏教の母山」となった。

■比叡山が僧侶を惹きつけた理由

最澄は天台宗独自の僧侶養成制度を作ることが必要だと考え、比叡山に戒壇院(戒律を授ける場所。当時、登壇受戒の権限は奈良東大寺、筑前観世音寺、下野薬師寺だけが有していた)の設立を願って「山家学生式」と総称される「六条式」「八条式」「四条式」を次々に朝廷に提出している。「山家学生式」は比叡山に学ぶ僧の教育理念と修学規制を定めたもので、その理念は今も受け継がれている。六条式前文で最澄は「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」と記し、仏道を求める心を持つ人材こそが国宝であり、法華経の一乗精神に基づいて、そのような人材を養成することこそが天台宗と比叡山の使命なのであると述べている。そして十二年籠山行と言って、天台宗の年分度者は、12年の間、比叡山に籠って修行し、山を降りてはならないとした。戒壇院の設置は最澄の死の七日後に認められた。

このように比叡山は膨大な経論(三蔵のうち経と論)が備わり、多くの学匠がいて、学問の場所として、修行の場所として僧侶を教育、養成する体制が整備されており、更には独立した戒壇を持つことで、多くの人材を集めることになったのである。

■比叡山は鎌倉新仏教の開祖を輩出した理由

天台宗と同時期に開かれた真言宗では空海があまりに偉大で、後継者たちもその教義を空海以上に深められなかったのに対し、天台宗では円仁、円珍が唐に行き、最澄が果たせなかった密教の教義を完成させたことで、比叡山は日本の仏教の中心となった。鎌倉新仏教の開祖たちも比叡山に上って人は誰でも救われる、仏になれるという天台教学を学び天台戒壇院で授戒を受けた。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて武士の台頭で、朝廷の権力が弱まり、貴族による政治が終焉を迎え、戦乱や疫病が流行すると、人々の間に末法思想が広まり、誰もが救われる教えを求める機運が高まってきた。今までの奈良仏教は一部特権階級である貴族たちだけのものであり、民衆とは遠い存在であった。平安の天台宗や真言宗も朝廷の保護のもと、救済の対象は天皇や貴族たちであって、民衆が対象になることはなかった。こうした民衆の要望に応えるためには比叡山という山にいては限界があると考えた鎌倉新仏教の開祖たちは平地に降りて、今まで救済の対象でなかった武士、農民、非人、女性などの庶民に対し困難な修行は不要で(易行)、多くの経典の中から一つを選び(選択)、それだけにすがれば良い(専修)と精神の救いを平易に説いたので、民衆はこぞって帰依した。鎌倉新仏教の開祖たちは比叡山で天台教学等を学んだ基盤があったがゆえに思想を発展させ自らの教義を独創できたと言える。

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