比叡山から鎌倉新仏教の開祖が数多く生まれた理由とは (1/3ページ)

心に残る家族葬

比叡山から鎌倉新仏教の開祖が数多く生まれた理由とは

今年の9月、NHKの「ブラタモリ」で「比叡山~比叡山はなぜ“母なる山”になった?~」を2回にわたって放映していたので見た。ちなみに私は25年ほど前、比叡山を訪れた時、ここは「天台宗の総本山」だけでなく「日本の仏教の総本山」ではないのかというような印象を持った。

■そもそも比叡山が日本仏教の母山と言われる理由とは

理由は大講堂の脇道に比叡山で修行した鎌倉新仏教の開祖である法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)、一遍(時宗)などの大きな肖像画のパネルが建てられていたからだ。放送では各宗派が独自に作成して寄贈した開祖たちの木像が大講堂に祀られているところを紹介していた。なぜ比叡山はこのように多くの鎌倉新仏教の開祖を輩出したのだろうか。

■比叡山で最澄が開いた天台宗とは

比叡山は海抜848mの大比叡ヶ岳を頂点に、四明ヶ岳、釈迦ヶ岳、水井山の峰々が約20kmにわたって、京都と滋賀の県境に連なる山の総称で、724年の桓武天皇による平安遷都以来、都の東北に位置するところから、艮(うしとら)の鬼門を護る霊峰として崇められてきた。霊峰富士にも似た美しい山容は「都富士」の名で親しまれ、都の象徴的存在である。この比叡山の滋賀側の麓の坂本で生まれた最澄は東大寺で具足戒を受けた後、20歳の時初めて比叡山に上り「願文」で五つの誓いを立て修行に入った。その後、唐に渡り中国天台宗の天台教学とともに密教、禅、戒律を学び、法華円教、真言密教、達磨禅法、大乗菩薩戒の四宗融合を特徴とする総合仏教としての日本独自の天台宗を開いた。ただ密教に関しては不完全であったので、唐で密教を学んだ真言宗の開祖空海に教えを乞うている。

806年、天台宗は朝廷から2名の年分度者(国家で定めた得度僧)を認められ、奈良の南都六宗に並ぶ宗派として公認された。最澄は奈良仏教が仏教には声聞、縁覚、菩薩の三つの乗り物があり、菩薩に乗った人だけが成仏できるという三乗説をとっているのに対し、仏の教えは一つであり、すべての人はみな平等に仏の教えによって救われ成仏できるという一乗説を唱え、南都六宗の一つであった法相宗の徳一と激しく論争した。

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