桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【一】 (2/3ページ)

Japaaan

服部小平太のプロフィール・誕生から桶狭間まで

【実名】服部一忠(はっとり かずただ)
【通称】小平太(こへいた)
【別名】春安(はるやす)、忠次(ただつぐ)
【生没】生年不詳(天文九1540年前後?)~文禄四1595年7月
【官位】従五位下采女正
【主君】織田信長⇒羽柴秀吉⇒豊臣秀次
【家族】弟:小藤太(ことうた)、次男:勝長(かつなが)

小平太の生まれた年は不明ですが、地元・尾張の生まれで信長の馬廻に取り立てられていることから、良家の子弟として奉公に出され、桶狭間の戦い(永禄三1560年)時点で10代半ば~20代半ばの血気盛んな年ごろ(天文四1535年~天文十四1545年ごろの生まれ)だったと推測できます。

馬廻はいざとなれば文字通り、身体を張って主君の楯となる役目があるので、身体は強健、武芸にも鍛錬を積んでいたことでしょう。

小平太という通称から察するところ、平氏の家柄で父親は「平太郎(平氏の家の太郎)」、その子だから「小平太」と呼ばれたものと考えられます。

では弟の小藤太は藤原氏の末裔(藤原氏の太郎の息子)ではないのか、という疑問も湧いてきますが、こちらは母親が藤原氏の家から嫁いで来たのかも知れません。どちらが正室か側室かは不明です。

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