短期集中連載 工藤會 野村悟総裁「獄中記」【後編】 (2/4ページ)
前々号から掲載してきた「獄中記」でも、野村総裁は「身に覚えがなければ無実を主張するまで」と、胸中を明かしている。その背景には、激動の時代を駆け抜け、紆余曲折を経て溝下秀男先代と盃を交わした俠としての性分が、あるからだろう。連載最終回となる本稿でも、野村総裁は長年にわたって歩んだ極道人生を、こう振り返っている。
★獄中で訃報を聞き怒り狂った
工藤會と私の歴史について、思えばいろいろなことがあった。のちに二代目田中組組長となる木村清純親分から私が盃を受けた頃は、すでに工藤組は九州では知られた存在であった。その中でも傘下の初代田中組・田中新太郎親分はスラリとした男前で気っぷがよく、孫分にあたる私も憧れたものである。あの頃は、自分が三代目田中組を継承するとは、想像すらしていなかった。昔はスターのようなヤクザが多かったが、特に小倉のヤクザは全国的に見てもレベルが高い気がする、と書いたら身びいきが過ぎるだろうか。
新太郎親分が注目されるのは、昭和38年の紫川事件(※欄外・編集部注)以降である。九州に侵攻を始めていた田岡一雄三代目率いる山口組との対立により、山口組関係者2名が殺害された。殺人教唆の疑いで逮捕され、草野高明若頭(のちの工藤會二代目)は服役。草野若頭が留守となった工藤組を守ったのが、若手ホープの新太郎親分だった。
工藤玄治初代に累が及ばないようにとの思いで、草野親分は獄中から独断で脱退を表明したが破門となり、当然ながら出所した時には組からの迎えはなかった。だが、対立していたはずの田岡三代目が放免祝いを申し出て、草野親分も好意を受けたことから、さらに工藤派と草野派の対立は深まってしまう。
特に草野親分が出所したのちの昭和53年10月に草野一家を立ち上げ、翌年12月には山口組系の伊豆組・伊豆健児初代と兄弟盃を交わしたことで、空気が変わっていく。この結縁式に出席しなかった工藤派の新太郎親分が、なんと2日後に射殺されてしまったのだ。
ヒットマンは、草野一家傘下で溝下秀男親分(のちの工藤會三代目)が率いていた極政会の若い者であった。