短期集中連載 工藤會 野村悟総裁「獄中記」【後編】 (3/4ページ)

週刊実話

銃撃の原因は、工藤初代ですら出席した結縁式に、新太郎親分が出席しなかったことや、少し前に溝下親分が襲撃されて2週間のケガを負ったことへの報復だったといわれている。

 この時、私は別件で服役しており、獄中で訃報を聞いて途方に暮れ、怒り狂い、荒れた。
「野村、跳んだら(ケンカをしたら)イケんぞ」

 私の様子を見て刑務官が心配したが、私は我慢できず獄中にいた草野一家の者たちをぶちのめしてしまった。獄中で官(所長から刑務官まで施設側の人間)に媚びたり、対立組織の者に気合い負けしたりしたら、ヤクザは終わりなのだ。
 こうして工藤派と草野派の対立は、より激しく銃弾が飛び交う事態となっていく。「北九州戦争」である。

 工藤・草野双方の事務所や関係者が狙われていく中、昭和56年2月4日深夜に決定的な事件が起こる。小倉の繁華街・堺町の路上で、工藤会理事長で矢坂組・矢坂顕初代と、草野一家若頭で初代大東亜会・佐古野繁樹会長が偶然にも鉢合わせしてしまったのだ。それぞれ若い者を5人連れており、酔いもあってか口論から壮絶な銃撃戦に発展し、矢坂理事長、佐古野若頭の双方が亡くなる。

 これを受けて、「見舞い」と称して工藤会側には九州の反山口組系組織の幹部が、草野一家側には兄弟分の伊豆組長など山口組系幹部が、続々と小倉市内に集結。代理戦争の様相も呈してしまったのだ。

 ところが、危機を憂慮した関東の大親分が仲裁に入って、3週間ほどで和解が成立し、手打ち式が行われた。双方の組織が合併するのは、さらにのちの昭和62年6月であった。工藤玄治総裁、草野高明総長、溝下秀男若頭、そして私、野村悟本部長による「初代工藤連合草野一家」が発足。1000人規模の九州一の組織となって、ヤクザ業界を驚かせることになる。

★恩讐を超えた必然の絆

 反山口組と親山口組に分かれていた私たちが再び合流するのだから、それはもういろいろあった。街中での銃撃戦も起こっており、暴力団追放運動もたびたび話題になった。だが、最終的には、ようやく「わだかまりを捨てて合流しよう」となったのだ。

 もちろん、工藤初代から「溝下と盃を交わせ」と言われた時は正直困惑した。

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