豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【二】

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豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【二】

前回のあらすじ

豊臣秀頼と言えば、秀吉の後継者が有名ですが……。

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と言えば天下人・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の後継者として有名ですが、実はもう一人「秀吉公認の豊臣秀頼」がいたのをご存じでしょうか。

その武将は戦国時代の天文十1541年、尾張国守護・斯波義統(しば よしむね)の次男として生まれますが、14歳の時に守護代・織田大和守信友(おだ やまとのかみのぶとも)に父を殺され、織田信長(おだ のぶなが)の元へ逃げ込みます。

そして信長の家臣・毛利十郎(もうり じゅうろう)の養子となり、元服して毛利長秀(ながひで)と名乗りました。

兄・斯波義銀(よしかね)は信長の協力を得て父の仇討ちを果たし、晴れて父の跡を継いで尾張国守護となったものの、政治の実権を握っている信長が疎ましくなり、追放を企んだもののあっけなく発覚、逆に尾張国から追放されてしまったのでした。

前回の記事

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【一】

桶狭間で飾った冥加の初陣

兄が尾張守護の権力に執着して権謀術数を巡らしていた一方、毛利家の跡取りとなった長秀は信長の馬廻(うままわり。騎馬親衛隊)となり、養父・十郎の教えを受けて文武の道に励みます。

桶狭間で活躍した毛利十郎と長秀(イメージ)。月岡芳年「桶狭間大合戦之図」元治元1864年

そして20歳となった永禄三1560年、桶狭間の戦い(5月19日)で父と共に初陣を飾り、勇猛果敢に武功を立てることが出来ました。

戦いは信長の勝利、その馬廻である毛利新介秀高(もうり しんすけひでたか)が敵の総大将・今川義元(いまがわ よしもと)の首級を上げたことは有名ですが、『信長公記』によると、当時

「毛利新介が上げた今回の大手柄は、かつて尾張守護・斯波義統が殺された時、その遺児であった長秀(幼君・おさなぎみ)を毛利十郎が保護・養育した冥加(神仏のお取り計らい)だ」

といった噂が流れたそうです。ただ同じ毛利という名字だからか、あるいは毛利十郎と毛利新介は、同じ一族であった可能性も考えられます。

※元服に際して長秀と称したのは、毛利一族の通字である「秀」に信長から賜った「長」を冠したのかも知れません。

その場合、桶狭間時点で長秀は20歳、新介は20~25歳ごろ(推定)ですから、長秀を保護・養育した十郎の年齢を40~50歳と推定すれば、新介は十郎の甥(兄たちの子?)世代に当たります。

毛利「河内守」長秀、赤母衣衆に抜擢されて大活躍

さて、桶狭間で立てた武功は信長からの覚えめでたく、長秀は河内守(かわちのかみ)の官途(かんど)を与えられます。

官途とは主君が家臣の手柄に対して官職の私称(朝廷からの公認なく、勝手に名乗ること)を許可することを言い、実際には河内国(現:大阪府東部)を治めていないものの、武家社会では名誉なこととされました。

「長篠合戦図屏風」より、赤母衣衆と黒母衣衆。

そして永禄十1567年、信長が馬廻の中からより精鋭の「母衣衆(ほろしゅう)」を創設すると、27歳の長秀もそのメンバーに抜擢。長秀は比較的年少者で構成される赤母衣衆(年長者は黒母衣衆)に配属され、後に加賀百万石の大大名となる「槍の又左」こと若き日の前田又左衛門利家(まえだ またざゑもんとしいえ)らと戦歴を重ねます。

いくつもの戦場を渡り歩いた長秀には多くの武勇伝がありますが、中でも面白いエピソードがあるので、こちらに紹介したいと思います。

時は元亀元1570年9月7日、信長の軍が天満の森で一向門徒(石山本願寺)と交戦。長秀は敵将・長末新七郎(ながすえ しんしちろう)に挑みかかりました。

「いざ、勝負!」

猛然と槍を繰り出した長秀でしたが、その穂先が届くより早く、横から突き出した槍が敵将の首を貫通しました。

功名は自分で立てるもの……敵将の首級を譲り合う武士の矜持

「敵将・長末新七郎、討ち取ったりっ!」

その槍の主は、長秀と同じく信長に仕えていた馬廻の兼松又四郎正吉(かねまつ またしろうまさよし)。歳は長秀の一つ下ですが、桶狭間の初陣よりこの方、共に各地を駆け巡った戦友です。

「「……あ」」

戦場の昂揚感で周囲が見えなくなっていた又四郎が我に返ると、長秀の獲物を横取りしてしまったことに気づき、すっかりバツが悪くなってしまいました。

いかにも真面目そうな兼松又四郎正吉の肖像、Wikipediaより。

「……いや、これは相すまぬ。長末の首級は河内殿に……」

そう申し出た又四郎ですが、功名を自分で稼がずして武士の面目あるものか……という訳で、長秀も受け取りません。

「いやいや、討ち取った首級は又四郎殿が受けるべき。それがしに構わずお取りなされ」

「いやいやいや、それではそれがしが手柄を奪ってしまったようで後味が悪うござる。ご遠慮なされますな……」

「いやいやいやいや……」

などと譲り合っている内、俄に敵方が勢いを盛り返して長秀と又四郎は一時退却。結局敵将の首級を取り損ねてしまいました。

とかく餓鬼のごとく血眼で功名を求める戦国乱世にあっても、なお道義を忘れない長秀たちの大真面目な性格は、勇猛果敢な戦いぶりとのギャップもあって、どことなくユーモラスにも感じられます。

さて、その後も長秀たちは武田や上杉といった強敵たちと死闘を繰り広げるのですが……。

【続く】

参考文献

谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年 谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年

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