豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】 (4/4ページ)

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秀秋は共に伏見城で戦った毛利豊前守吉政(もうり ぶぜんのかみよしまさ。俗に勝永)の軍勢に加わり、四天王寺(現:大阪府大阪市天王寺区)で徳川方の仙石兵部大輔忠政(せんごく ひょうぶだゆうただまさ)の軍勢と激突しました。

「やぁやぁ遠からん者は音に聞け……我こそは毛利河内守秀秋!……命の要らぬ者はかかって参れ!」

勝ち目はなくても最期まで果敢に戦う秀秋たち(イメージ)。「大阪夏の陣図屏風」Wikipediaより。

かくて勇猛果敢に戦った秀秋ですが、衆寡敵せず力尽きたところを仙石家の家臣・岡田広忠(おかだ ひろただ)に討ち取られてしまいます。

やがて大阪城は陥落、燃え盛る炎の中で主君・秀頼公も自害して豊臣家は滅亡。こうして「豊臣秀頼」は二人とも、歴史の舞台から姿を消していったのでした。

【完】

※参考文献:
谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年
谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年
黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年
高柳光寿『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年

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