豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】 (3/4ページ)

Japaaan

嫡男・秀秋の前途に暗雲漂う(イメージ)。

詳しい事情については不明ですが、まだ幼い秀秋が10万石すべて継承するより、所領が隣接している年長者の京極高知に9万石を追加で与えた方が、周辺諸国へ睨みが利く……などと秀吉も思ったのかも知れません。

辛うじて大名としての体面を保つことが出来た秀秋は秀吉の死後、その嫡男である豊臣秀頼(秀頼公)にも仕えますが、豊臣政権の内部抗争である関ヶ原の戦い(慶長五1600年)では石田治部少三成(いしだ じぶのしょうみつなり)率いる西軍に属します。

伏見城の攻略では手柄を立てたものの、西軍が敗れてしまったため、東軍の大将・徳川家康(とくがわ いえやす)によって、1万石の領地を改易(かいえき。没収)されてしまいました。

それでも豊臣家には恩義があるから、と今度は大名でなく一家臣として秀頼公に仕え、5,000石の旗本として召し抱えられますが、この頃既に世の趨勢が徳川に傾きつつあるのを感じていたかも知れません。

そして大阪の陣で散華

以降、家康はあの手この手で秀頼公を挑発し続け、ついに豊臣・徳川の最終決戦となる大阪の陣(慶長十九1614年11月~二十1615年5月)が勃発します。

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