豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】 (2/4ページ)
朝鮮・釜山を攻める豊臣軍。Wikipedia:文禄の役『釜山鎮殉節図』より。
文禄元1592年の朝鮮征伐(文永の役)では肥前名護屋城(現:佐賀県唐津市)の築城普請に携わり、在人して秀吉の傍に控えるも渡海出征の機会はなく、玄界灘を眺めては「もう十年若ければ、槍一本で唐天竺(からてんじく。中国・インド)まで先駆けたものを……」などと嘯(うそぶ)いたのかも知れません。
そして翌文禄二1593年、有名な方の豊臣秀頼(拾丸)の誕生と入れ替わるようにして53歳の生涯に幕を下ろしました。
尾張守護の名門に生まれながら幼くしてその地位を追われ、信長・秀吉の下で一から文武両道の働きで身を立て、大名にまで上り詰めた、まさに波瀾万丈の人生と言えるでしょう。
家督を継承した秀秋の受難さて、幼くして家督を継承した毛利秀秋(※)ですが、秀頼の遺領10万石の内、9万石は義兄(姉婿)の京極高知が受け継ぎ、秀秋には1万石しか与えられませんでした。
(※)父が秀吉から賜った豊臣の姓がまだ有効であったかは不明ですが、まだ幼く、実績もない事などから空気を読んで憚ったものと考えられます。