プラトニズムとカトリシズム それぞれの肉体観の比較 (2/3ページ)
■カトリックの肉体観
ニーチェ(1844~1900)が批判するようにキリスト教といえば現実・物質・肉体を汚れたものとして軽視し、神・天国といったこの世を超越したものへ価値を見いだすイメージが強い。しかしキリスト教の主流であるローマ・カトリックは肉体を尊重し、むしろ人間の肉体性を強調する立場をとっていることはあまり知られていない。人間は神に似せて創られたものである(imago dai=神の似姿)。神の被造物たる肉体は尊いものでこそあれ、軽視されるべきものではない。カトリックが禁欲を説くのは尊い肉体を大切にし、より高い境地に導くべきであるという意味で肉体軽視とは真逆の思想といえる。
さらに決定的なのが「キリストの受肉」である。キリスト教の肉体観が他の宗教と決定的に異なる要素として、イエス・キリストの「受肉」という「事実」が背景にある。神が人の肉をまとって現世に現れる不合理かつ矛盾に満ちた「事実」は、肉体を軽視できない背景となった。ローマ・カトリック(並びに古代キリスト教の形を最も濃く残している東方正教会)はキリストの受肉という神秘を事実として受け入れることで肉体尊重の思想を構築したのである。
そうはいっても肉体はやがて老い衰え、朽ち果てる有限な存在ではないか。それなら魂に永遠を見いだすプラトニズムの方が救われるように思える。肉体軽視の思想はいずれ自分にも訪れる最期に備えての慰めになるのではないか。
カトリシズムでは肉体が偉大な被造物であると同時に、いずれ滅びゆく不完全性を有していることについて「原罪」を根拠としている。聖書には最初の人間アダムとその妻・エバが神の掟に背き、永遠の命を生きられる楽園を追放され、人間は肉体の永遠性を失ったとある。同時に人間は死後「最後の審判」を迎え、原罪を赦され、肉体ごと復活すると説く。肉体ごとというのが特筆されるところだ。復活するのは決して肉体から離脱した霊魂のような存在でない。あくまでこの肉体なのである。
■プロテスタントの解釈
同じキリスト教でもプロテスタントになると解釈は変わってくる。