渋すぎる!平隊士の身分を貫いた新選組の“仕事人”蟻通勘吾の美学【中】
前回のあらすじ 渋すぎる!平隊士の身分を貫いた新選組の”仕事人”蟻通勘吾の美学【上】
新選組(しんせんぐみ)の結成初期から入隊し、最期まで平隊士の身分を貫いた蟻通勘吾(ありどおし かんご)と、同期入隊の山野八十八(やまの やそはち)。
共に剣術・胆力を兼ね備えた勇士として定評を確立、「縁の下の力持ち」として幕末の京都を東奔西走します。
そんな中、彼らに思いがけない知らせが届くのでした……。
幕府の直参に取り立てられるも……その後も勘吾と八十八はよきライバルとして切磋琢磨、隊務に励んでいた慶応三1867年6月。新選組はこれまで数々の活躍が認められ、徳川幕府の直参(じきさん。直属の家臣=幕臣)に取り立てられることとなりました。
これまで日本の行く末を憂えて天下の役に立ちたいと奔走しながら、やれ身分が卑しいだの素性が怪しいだのと蔑まれ続けてきた浪士たちが、いよいよ青天白日の下で大手を振って歩ける身分となったのです。
しかし、多くの隊士たちが肩書を得て喜んだり、思った肩書が得られず悔しがったりする中で、勘吾も八十八も平隊士のままでした。
ただ在籍していただけとでも言うならともかく、これまで命懸けで多大な貢献をしてきた二人が平隊士のままとは一体どういう了見か……他人事ながら不憫に思う声があったかも知れませんが、勘吾も八十八も、きっとこう考えたことでしょう。
「誰かが上に立てば、誰かは下につかねばならない。徒(いたずら)に虚名を求めるよりも、天下のお役に立つため、新選組の務めを最前線で担える栄誉を何よりも喜びたい」
みんな主役じゃ芝居にならぬ……勘吾や八十八の態度には、肩書よりも仕事にこだわったプロフェッショナルの矜持が垣間見えます。
「天満屋事件」で要人警護の任務を完遂慶応三1867年12月7日、勘吾は斎藤一や「人斬り鍬次郎」こと大石鍬次郎(おおいし くわじろう)ら6名と共に、紀州徳川藩の公用人・三浦休太郎(みうら きゅうたろう)の警護に当たりました。
三浦は去る11月15日に暗殺された坂本龍馬(さかもと りょうま)と中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の仇として、坂本の率いた海援隊(かいえんたい)、中岡の率いた陸援隊(りくえんたい)らの逆恨みを買っていたのです。
※三浦は同年4月に発生した「いろは丸沈没事件」で坂本との賠償交渉で敗れ、紀州徳川藩は膨大な賠償金(83,000両)を負わされたため、龍馬らの暗殺はその恨みに違いない、と断定されていました。
襲撃犯は陸奥陽之助(むつ ようのすけ。後の宗光)はじめ海援隊、陸援隊の15~16名と言われ、京都・油小路の天満屋(てんまや)にいた勘吾たちは、三浦を護衛するために闘い抜きます。
行燈を消した暗闇で斬り合った結果、三浦は頬を斬られたものの命に別状はなく、ほか紀州藩士の三宅精一(みやけ せいいち)と関甚之助(せき じんのすけ)も軽傷で済みました。
一方の新選組は舟津釜太郎(ふなつ かまたろう)と近藤勇の従弟である宮川信吉(みやがわ しんきち)が討死、斎藤一をかばった梅戸勝之進(うめと かつのしん)が重傷、ほかは勘吾を含めて軽傷だったそうです。
また、襲撃側は中井庄五郎(なかい しょうごろう)が討死したほか2~3名が負傷、報せを受けた新選組と紀州藩が天満屋に到着した時には素早く撤収。少なくからぬ被害は出たものの、三浦を護り抜く任務は完遂できました。
しかし、日ごとに高まる討幕の機運は抑えようがなく、やがて剣術≒武士の時代は終焉を迎えつつありました。
【続く】
※参考文献:
永倉新八『浪士文久報告記事』新人物文庫、2013年9月6日
永倉新八『新選組顛末記』新人物文庫、2009年5月1日
好川之範 『箱館戦争全史』新人物往来社、2009年1月1日
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