「闇営業問題、チュートリアルの徳井義実は!?」爆笑問題と渡辺正行が大いに語る!
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田中裕二
本誌で大好評連載中の『コント赤信号 渡辺正行 スター芸人たちの“笑いと涙”』。今回はその特別編として、なんと渡辺リーダーとお笑いコンビ・爆笑問題との対談が実現! 30年以上にわたる深い関係を持つ両者に、出会いから、お笑い界ウラ話、そして2019年に起きた闇営業事件にBIG3まで、大いに語ってもらった!
――リーダーが主催し、1986年から月1回のペースで30年以上続いている『ラ・ママ新人コント大会』。これが爆笑問題デビューのきっかけなんですよね?
太田 そうです。88年3月のことですね。
田中 本番の前にまずネタ見せがあって、新宿区の曙橋で初めてリーダーに会ったんですよ。
渡辺 当時、俺は劇団の代表もやってて、稽古場を借りていたんです。そこでオーディションをしてたんだけど、誰でも受け入れてたから、全国から、とにかく人が来たんだよね。
太田 稽古場に入るまでの階段で相当待ちましたよ。
田中 中に入れても、まだ世に出てない芸人ばかりが、そのへんで体育座りして待ってるし。もう、怖くて怖くて……。
太田 そうすると、後から『チャイルズ』が来るんですよ。彼女たちだけ優先的にネタ見せをやらせて、OKが出たんだよね。全然面白くないのに、リーダーが(磯野)貴理子を食っちゃってたから。
渡辺 食ってないよ(笑)! 初めて見たときから爆笑問題は面白かったんだろうけど、1日に何十組も見てるからねえ。あんまり覚えてないなあ……。でも、たしか「コントが長いから短くするように」ぐらいは言ったよね?
太田 ですね。「進路指導室」というネタを15分やりましたからね(笑)。
――太田さんの著書では、当時リーダーから「ネタはシンプルに誰にでも分かりやすくすることが大切」というアドバイスがあったと。
渡辺 あっ、俺がアドバイスしてたんですね! やっぱり的確だなあ(笑)。
太田 いや、でも本当にそれだけ(笑)。でも逆にリーダーがすごいのは、それしか言わない。理屈がどうとかじゃなくて、「何が売れるか分からないから、とにかく分かりやすく伝わればいいんだよ」というスタンス。
渡辺 だって、「自分たちのネタが面白い」と思うから作るわけで、それをどうこう言ってもね。
――いろいろ言われるよりも、それぐらいのほうがタメになったんですね?
太田 大してタメにはならないけど。
渡辺 おい(笑)!
太田 で、実は、大して練習もしないでナメてたんですよ。「どうせリーダーだし」って思って(笑)。
渡辺 なんだよそれ!
田中 でも、実際にやるとものすごく緊張するわけ。漫才ブームからずっと見てた人だから。初めてちゃんとした芸能人に会ったと思って、ビビりました(笑)。
太田 ビビッたねえ(笑)。
田中 しかも、目の前にいるような距離だったし。
太田 頭が真っ白になっちゃってね。爆笑問題として初めてのネタ見せだったから、よく分からないし。「こんなにウケないものなのか……」って。
渡辺 まあ、ネタ見せってほとんどウケない。俺らも別に笑わないからね。
田中 他の芸人たちも絶対に笑わなくて、睨みつけるぐらいの雰囲気だから。
太田 体も震えましたよ。ハリセンで田中を叩くシーンがあったんですけど、空振りしましたから(笑)。ハリセンで空振りしたらもう、目も当てられない。それで「これはダメだ」って思って、本番までの1週間ずっと練習。田中と家に籠って合宿みたいなことをしたんです。
渡辺 へえ〜、そういうところが偉いよね。でも結局、2人はコントをまったく短くしてこなかったんだよね(笑)。
田中 はい。ネタを作った太田としては、「絶対に面白い。ちゃんと演じればウケないはずがない」という自信があったらしいんですよ。
太田 あったね。
田中 僕は「リーダーが言うように、もうちょっと分かりやすく、確実にウケそうなところだけつないで短くしたほうがいいんじゃない? 」って言ったんだけど、
太田は「これは絶対に練習不足。練習して、この通りにやったほうがいい」と。それで15分のままにしたんです。
■初めてのライブで太田プロのマネージャーが!
太田 ネタ見せのときは緊張して、最初のつかみで声がうわずっちゃったりしたんで。そういうのをちゃんとするだけでも全然違うじゃないですか。だから合宿ですよ。今まであんなに練習したことはないですね。
渡辺 そうか、それは知らなかったなあ。
太田 俺が初めて書いたコントだから、それを全部やってウケないと、自分が全否定されちゃうというか。今まで面白いと思ってたことが成立しないと、生きていけない。だから必死だった。しかも、リーダーには「長い」って言われるし。漫才ブームの頃のコント赤信号なんて大したもんじゃないし。
渡辺 大したもんだよ(笑)!
太田 そんな人に言われてもね(笑)。
渡辺 さっき「ビビッた」とか「頭が真っ白」とか言ってただろ!
田中 それで本番は、「コーラスライン」という、5人のお客さんが手を挙げたら強制終了になるコーナーだったんですけど、1人も挙げなかった。15分キッチリできました。
太田 ウッチャンナンチャンがはやらせたショートコント全盛の時代だったから、俺たちは不利だったと思う。そこでウケたからこそ、僕らは今まで続いてるんです。
渡辺 ライブには正統派からキワモノまでなんでも出てるけど、とにかくウケた者が勝ちなんですよ。
田中 ライブ終了後に打ち上げがあったんですけど、僕らは初めてだから知らなかったんです。出番が終わったら、「ウケてよかったな。じゃあ帰ろうか」って帰っちゃったんです。
渡辺 そうだったっけ?
田中 実はそのとき、太田プロのマネージャーが僕らを探してくれてて。だから、たった1個のネタで事務所が決まったんですよ。
■フジテレビの深夜番組『冗談画報2』に出て
渡辺 そういうインパクトがあったんだろうね。生まれて初めて出たライブでいきなりスカウトされるって、なかなかないから。それ以降、爆笑は『ラ・ママ』に、新しいネタを作って出演するようになったんだよね。
田中 2回目が「中国残留孤児」、3回目が「原子力発電所」というネタで。
渡辺 ひどいネタばっかりじゃないの(笑)。
田中 両方とも途中で手が挙がっちゃって……。だけど4回目の「東京の不動産屋」のネタ見せをしたとき、リーダーに「これ、コーラスラインじゃなくて、一本ネタで行ける」って言ってもらったんですよ。そこからは、ずっと一本ネタ。
渡辺 一本ネタは強制終了がないコーナーなんですけど、俺がそう言ったんだ。ちゃんと見る目があったんだなあ(笑)。
田中 ちょうどその頃、フジテレビの深夜番組『冗談画報2』に出させてもらったんですけど、テレビでできるネタは「進路指導室」と「東京の不動産屋」しかなかった。だから、その2本をやったんです。
太田 たしかリーダーが紹介してくれたんですよね。
渡辺 そうだっけ? 全然覚えてない(笑)。
太田 『ラ・ママ』の打ち上げのとき、「お前らが、なんで冗談画報2に出れんだよ!」って絡まれた。
田中 おまけに「太田プロに入って、“ツービートの再来”とか言われてるらしいな!」とか言い出して。
太田 「どういうつもりだ!」ってね(笑)。
田中 「どういうつもりだ!」って言われても知らないよ、俺らは(笑)。
渡辺 ハハハ。それでなんで爆笑は、最初はコントスタイルだったのに、途中から漫才にスタイルを変えたんだっけ?
太田 もうコントのネタが思いつかなくなったんですよ。凝った設定をいろいろと考えてきたんですけど、このまま行くと、いずれ息詰まるなと。
田中 どれもすごく凝ってて、短編小説のようなネタだったからね。
太田 だったら、漫才の素のしゃべりにして、「ネタをどこかから持ってきたほうが量産できるだろう」と考えたんです。
渡辺 デビューしてからどれぐらい?
田中 8か月くらいですね。
渡辺「漫才にします」と言われたときは、「漫才は一朝一夕でできるものじゃないから難しいよ」って答えたんだけど、ものすごくウケた。俺、「うわーっ、すげえ!」って驚いて、鳥肌が立ったもん(笑)。
太田 俺たちが大ウケしたのは、このときと初舞台とテレビ朝日の『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』の8週目。この3回しかない。それ以降、まったく超えられないんですよ。
渡辺 ホントに〜?
太田 終わった後に、客席にざわめきや、どよめきが起きるようなことはもう。
田中 まあ、めったにないんですよ、これは。
渡辺 でも、あるよね。「やったぜ!」って、ドヤ顔で帰る瞬間が。
太田 いやあ、リーダーはないでしょ!
■不倫なんてアウトですから
渡辺 あるよ(笑)! 失礼な(笑)。でも、あの頃は良かったよね。みんなハチャメチャやって必死で頑張ってた。今は、コンプライアンスとかあって、芸人も無茶できないからね〜。19年は芸人界でも、いろいろありましたね。
渡辺 闇営業問題とかね。
田中 あれは反応がホントに過剰でしたよね。
渡辺 ネットで叩かれてね。
田中 犯罪組織とグルになって犯罪してたらダメですけど、後に捕まったヤツらのところに知らないで呼ばれたんですもんね。
渡辺 チュートリアルの徳井だって、悪いことはしたけど、申告してないだけで犯罪じゃないよね。
田中 リーダーなんてホントよかったですよ。今、不倫なんてアウトですから。
渡辺 不倫のフの字もしたことないってば(笑)。
太田&田中 え〜!!
渡辺 でも、お笑い界ではいまだビッグ3は健在だよね。特にビートたけしさんなんて、エネルギーがすごいよね。あの年になったら、「もういいか」って思うはずなのに、まだ、いろんなことをやろうとするんだから。
田中 落語もやるし、小説も書いてるし。
太田 この期に及んで、離婚もするしね(笑)。
田中 もう70代の人がエンターテインメントの中心にいるなんて、昔は考えられなかった。高齢化と言えば高齢化なんですけどね(笑)。
渡辺 でも、ずっと人前に立ってやっていくというのは、やっぱり大事だよね。爆笑問題だって、きっちりネタを作って披露することをやめないし、ホントに偉いと思う。
太田 ちなみにリーダーは、俺らの事務所主催の20周年のライブにコント赤信号で出てもらったとき、全然ダメだったですよね。スベリまくってた(笑)。
渡辺 バーカ(笑)。8割くらいは笑いを取ったよ。
太田 同情の笑いを(笑)。
渡辺 そんなことないよ!
太田 だって俺ら、コント赤信号の後に出ていってすぐに、「何あれ? 」って言ったら、ドッカーンってウケましたからね(笑)。
渡辺 違うよ〜。ちゃんと頑張ったんだって〜(笑)。※
――爆笑対談は次回に続く!
ばくしょうもんだい ボケの太田光(54)とツッコミの田中裕二(54)のお笑いコンビ。日本大学芸術学部演劇学科の在学中に出会い、中退後の1988年3月に結成。渡辺正行主催の『ラ・ママ新人コント大会』でデビューし、その場で太田プロにスカウトされる。1990年に太田プロから独立し、1993年に自らの芸能事務所タイタンを設立する。翌年『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』で10週勝ち抜き、初代チャンピオンになり、その後、『タモリのSuperボキャブラ天国』(フジテレビ系)でブレイク。現在は、『サンデージャポン』『爆報! THEフライデー』(ともにTBS系)、『爆笑問題のシンパイ賞!!』『太田松之丞』(ともにテレビ朝日系)など、数多くの番組で司会を務め、大活躍している。
わたなべ・まさゆき 1956年1月24日、千葉県(現)いすみ市生まれ。明治大学在学中にラサール石井、小宮孝泰と出会い、コントグループ『コント赤信号』を結成。1980年にフジテレビ花王名人劇場にてデビューし、暴走族コントなどで人気を博す。その後、『オレたちひょうきん族』など数多くの人気番組に出演。テレビ番組で活躍するかたわら、1986年からは若手お笑い芸人の育成のための場、「ラ・ママ新人コント大会」を主宰。現在第一線で活躍する人気芸人を、若き日から見ている。