【門松にまつわる一説】武田氏にリベンジ!門松の竹をナナメにぶった斬った徳川家康のエピソード (3/4ページ)

Japaaan

「まつかれて たけたくひなき あしたかな」

【読み下し】松、枯れで 武田首なき 朝かな
【意訳】松は枯れず、武田の方こそ首がなくなる=滅ぶだろう

「松は枯れなんだか……」滅びゆく武田勝頼。歌川国綱「天目山勝頼討死圖」。

当時、和歌には濁点をつけず、平仮名のみで書くのが常識でしたから、家康は自分に都合よく濁点をつけ「竹、類(たくひ)なき」を「武田(たけた)、首(くひ)なき」と詠みかえたのです。

また、「枯れて」は「枯れで」と濁点をつけることで「枯れずに、」と真逆の意味になります。

これを聞いた家臣たちは、俄かに喜色を取り戻し「次こそは武田を討つべし!」と大いに気勢を上げたとのことです。

果たして家康たちは信長の助けもあって天正十1582年に武田氏を滅ぼし、三方ヶ原のリベンジを7年越しに果たしたのでした。

終わりに

こんなことがあって以来、徳川家の影響が強い地域では門松の竹を袈裟斬り(削ぎ切り)に、別にそうでもない地域では古来の水平切り(寸胴切り)を続けたそうです。

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