アラ還女性が「いざ鎌倉!」息子への愛情と遺産相続の執念を詠み綴った「十六夜日記」

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アラ還女性が「いざ鎌倉!」息子への愛情と遺産相続の執念を詠み綴った「十六夜日記」

「いざよい」なんてちょっとお洒落な響きが印象的な『十六夜日記(いざよいにっき)』。鎌倉時代の女性・阿仏尼(あぶつに)によって書かれた紀行文として日本史の授業で紹介された方も多いと思いますが、その内容については「何だっけ?」という方も少なくないはず。

そこで今回は、鎌倉時代の紀行文『十六夜日記』の概要とその作者・阿仏尼のプロフィールなどを紹介したいと思います。

2分で解る!『十六夜日記』を紹介

まず「あまり深いとこまでは興味ないけど、サラッと知っておこうかな」という方向けに『十六夜日記』とは何か、その成立背景を含めてごくざっくりと紹介します。

『十六夜日記』の作者・阿仏尼。Wikipediaより。

一、作者・阿仏尼は藤原為家(ふじわらの ためいえ)の側室で、夫の遺産が正室の子・二条為氏(にじょう ためうじ)に相続されることを快く思っていない。

一、日記は自分が産んだ息子・冷泉為相(れいぜい ためすけ)に遺産を相続させたい阿仏尼が、幕府に訴え出るため京都から鎌倉に下ったエピソードが書かれている。

一、読みどころは鎌倉への道中情景や文中各所に偲ばれる息子への愛情、そしていかんなく発揮された和歌の才能(ちょくちょく和歌が出てくる)。

一、タイトルは日記が10月16日付(十六夜)で始まっていたことに由来するが、阿仏尼自身がつけた訳ではなく(特に名前をつけておらず)、当初は『阿仏日記』などと呼ばれていた。

……この位おさえておけば「十六夜日記?まぁ、ちょっとは知っているよ」と言えるのではないでしょうか。

これ以上の興味がなければこれで解散してもいいのですが、せっかくなので阿仏尼の略歴や、彼女の詠んだ和歌などもお付き合い頂けると嬉しいです。

アラ還だって気にしない、息子のためなら「いざ鎌倉」!

阿仏尼は鎌倉時代前期の貞応元1222年ごろ、桓武平氏の流れをくむ奥山度繁(おくやま のりしげ)の娘として生まれました。幼少の頃から安嘉門院(あんかもんいん。邦子内親王、高倉天皇の孫)にお仕えしたことから、利発な子だったと見られます。

10代で初恋を経験して宮中の一隅を彩ったそうですが、あえなく失恋。そのショックから出家して阿仏尼と称します。随分と思い切った性格だったようです。

しかし転んでもただでは起きず、失恋エピソードを日記にまとめたものが後世『うたたね』として伝わっています。

また、出家しても世俗との交流は盛んに続け、三十路ごろに藤原為家の側室として嫁ぎますが、それまでの十年余りの間にも、何かしら恋愛エピソードが隠されていそうです。

ともあれ夫婦生活はそれなりに円満で、阿仏尼は冷泉為相らを生みますが、夫・為家が高齢になると、そろそろ遺産相続が気になります。

「あなた、為相に播磨国細川荘(現:兵庫県三木市)の領地を……」

「……お前の望みは叶えてやりたいが、あそこは既に為氏(正室の子)へ譲ると言ってしまったからなぁ……」

一度はそう断った為家でしたが、阿仏尼の度重なる懇願に心が揺らぎ、ついに臨終を前に「やはり、細川荘は為相に……」と遺言。

ついに念願叶った阿仏尼ですが、京都における公家法では「悔い返し(※クーリングオフの一種)」は認められず、細川荘は当初の通り為氏のものとされました。

しかし納得いかない阿仏尼は、悔い返しが認められる武家法での判決を求めて、鎌倉幕府に訴え出る旅路へと踏み出したのでした。

この時、阿仏尼は60歳前後のいわば「アラ還(Around還暦)」。当時の平均寿命が25歳前後と考えれば非常に高齢であり、いくら愛する息子のためとは言え、恐るべき執念ですね。

母の愛情を「時雨」に詠む

さて、阿仏尼は旅の道中そして鎌倉に着いてからもたくさんの和歌を詠みますが、その中で「時雨(しぐれ)」をテーマにした作品が多く印象に残ったので、一通り集めてみました。

袖を濡らすは、雨か涙か

うちしぐれ 古郷(ふるさと)思ふ 袖ぬれて 行先遠き 野路の篠原

いとゞ猶(なお) 袖ぬらせとや 宿りけん まなく時雨の もる山にしも

ひまおほき ふはの關屋(せきや)は この程の 時雨も月も いかにもる覽(らん)

時雨けり 染る千入(ちしお)の はては又 紅葉の錦 色かはるまで

待(はべり)けりな 昔もこえし 宮地山 おなじ時雨の めぐりあふよを

思ひやれ 露も時雨も 一つにて 山路(やまじ)分(わけ)こし 袖の雫を

古郷は 時雨にたちし 旅衣 雪にやいとゞ さえまさるらん

つたかえで しぐれぬひまも うつの山 涙に袖の 色ぞこがるゝ

旅衣 涙をそへて うつの山 しぐれぬひまも さぞしぐるらん

時雨とは初冬に降る俄か雨の他にも「涙を流す」意味(しぐれる)があり、遠く離れた故郷に残る息子(※)の将来を案ずる母の愛情が偲ばれます。

(※その後、為相も参考人としてしばしば鎌倉に召喚されます)

エピローグ

……かくして鎌倉幕府に遺領相続の訴えを起こした阿仏尼ですが、その判決が出る前の弘安六1283年4月8日、鎌倉の地で亡くなってしまいました(京都に帰った説もあり)。

しかし判決は為相の勝訴となり、阿仏尼も草葉の陰から喜んだことでしょう。そしてこの事がご縁となって為相は鎌倉に移住します。

鎌倉歌壇の隆盛に貢献した冷泉為相。Wikipediaより。

母譲りの歌才を発揮して、住んだ地名から後に「藤ヶ谷(ふじがやつ)式目」と呼ばれた和歌のお作法マニュアルを作るなど、鎌倉歌壇の発展に貢献しました。

阿仏尼の墓は鎌倉市扇ガ谷(横須賀線沿い、英勝寺の並び)にあり、また為相も母の近く、浄光明寺に眠っています。

※参考文献:
森本元子『十六夜日記・夜の鶴』講談社学術文庫、1979年3月8日
田渕句美子『物語の舞台を歩く 十六夜日記』山川出版社、2005年5月1日

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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