やくみつるの「シネマ小言主義」 A・クリスティを思わせるミステリーの傑作『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』 (1/2ページ)
往年の名作、アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』を思わせる密室劇。もしかしたら、古典に匹敵する傑作として、今後、何年も残るかもしれない完成度の高さです。
「容疑者は全員」という設定もクリスティっぽいですが、それが「国籍の異なる9人の翻訳家」というのが面白い。
全世界で一大旋風を巻き起こした小説『ダヴィンチ・コード』の4作目「インフェルノ」の出版時、原稿の違法流出を恐れた出版社は、各国の翻訳家を地下室に隔離し、密かに翻訳作業を進めていたそうです。この驚くべき実話から発想を得た本作は、デジタル時代ならではの仕掛けがプラスされて、現代的なミステリーになっています。
ただ、9人の中に日本人はいません。シリーズ完結時で2300万部を超えるハリーポッターを見ても、日本の出版市場は大きいのに。フランス語の堪能な日本人役者が見当たらなかったのか…長年、パリ在住だった中山美穂がいますのに。
しかし、ガッカリしないでください。犯行手口の重要な鍵となる高速コピー機が日本製品として存在感を出しています。「桜を見る会」の名簿隠滅に使われた大型シュレッダーの高性能が話題になったばかりですし、面目躍如というところでしょう。
密室劇と見せかけて、後半にカーアクションがあったりと、演出にもメリハリが効いています。オープニングの火事のシーンを始め、すべてが伏線となって後で回収されますので、気を抜かず見てくださいね。ちょっと複雑な9人の国籍とキャラ設定は、パンフレットであらかじめ頭に入れてから臨むことをお勧めします。
さて、秘密裏の出版準備といえば、自分にも思い出があります。
もう時効でしょうから明かしますが、ロッキード事件の「蜂の一刺し」で有名になった榎本三恵子さん。当時、この告白本の出版権を自分がかつて勤めていた出版社が手にしたんです。
ネットのない時代ですから、ゲラを携えて榎本さんが身を隠していたニュージーランドまで編集部長が飛んでいました。表紙カバーも写真を使わず、著者「松本三恵子」の偽名で試し刷りをして、ドタン場で差し替えるという念の入れよう。
ただ、ここまで隠密のミッションをやり遂げたにもかかわらず、ぜんっぜん売れなかった。