ひたすら衆生を救う一心で。急峻さで知られる槍ヶ岳を開山した江戸時代の僧・播隆上人とは? (2/4ページ)

Japaaan

笠ヶ岳という山を開山するため信者と頂に至ったときのことでした。播隆はこの山にも4回目登っており、道標に石仏・頂上に銅像を安置してこの世の平穏を願いました。

播隆は槍ヶ岳を見て、この山こそ心願成就するのに相応しく、あまねく人々を導く場所として祀りたいと強く思います。

そして1826年(文政9)、槍ヶ岳に初めて挑戦します。彼が通ったルートは、高度をあげるまでは命の危険を感じるほどの難ルートはありません。しかし山頂近くになると風は強く、夏でも夜は零度近くまで冷え込みます。そして肩と言われる山頂直下から、頂上に至る槍のように突き出た岩の塊が難関なのです。

しかしこのときは最初から頂を踏むつもりはなく、下調べのためでした。土地に明るい鷹匠の中田又重郎という者を連れており、彼はその後よき理解者でよき案内人となります。

その後1828年10月に初登攀。そのさい御来迎に輝く阿弥陀如来が現れます。これはブロッケン現象といって、自分の影が雲に映り後光が射す現象なのですが、播隆と又重郎は感涙にむせび泣き、ここに厨子を設置し、阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩の三尊像を安置しました。

祟りだ!となじられて

その後1833年から1835年にかけ三回登りますが、すべて順調ではありませんでした。数々の凍傷で足の指を失います。

また播隆は浄土宗でしたが、檀家制度によりこの一帯を治める禅宗の僧侶達の妨害にもあいました。おりしも天保の大飢饉が起き、これに乗じて「播隆が山を荒らした罪で飢饉がおきた」と流布されて、それを信じた村人達から石を投げられるなどの苦しみも味わいました。

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