どんだけ混浴したいの!何度禁止しても復活し続けた江戸時代の混浴の歴史 (2/3ページ)

Japaaan

しかし、元号が完成に変わり、時の老中・松平定信によって寛政の改革が行われると、その一環として寛政3年(1791)に混浴が禁止されました。「白河の清きに魚も住みかねて・・・」と詠われるほど厳粛な改革でしたから、混浴なんて松平定信からしたらもってのほかだったのです。

そこで初めて、「男湯」「女湯」が登場したわけです。しかし、湯屋だって黙っていません。なんと女湯の天井に覗き戸をつけて、男湯の二階から覗けるようにした店が流行したというのだから、改革もへったくれもありません。

その後、あまりに厳しすぎる改革に、老中・松平定信は不評を買い、失脚。またむくむくと混浴の習慣は復活してきて、またもや江戸には平和な(?)混浴パラダイス時代が訪れます。

VS 老中・水野忠邦

さて、時は流れ、天保12年(1841)。またもや厳格な老中・水野忠邦の天保の改革によって混浴は禁止されます。それでも法の目をかいくぐり、混浴の風習はしぶとく生き残ったまま、幕末に突入。

1853年、来日したペリーの「日本遠征記」によると、「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」。

注目すべきは、「なんとも思わず」という言葉です。当時の日本人は、男女が互いに裸であるという事がなんらおかしいことではなく、特に気にしてもいなかった様子がうかがえます。

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