明治の毒婦と呼ばれて…死んでもなお人生や遺体を辱められた薄幸の女性「高橋お伝」【後編】 (1/2ページ)

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明治の毒婦と呼ばれて…死んでもなお人生や遺体を辱められた薄幸の女性「高橋お伝」【後編】

前回、明治の毒婦と呼ばれた高橋お伝が斬首されるまでを紹介しました。今回は、斬首後のお伝について見ていきましょう。

前編はこちら

明治の毒婦と呼ばれて…死んでもなお人生や遺体を辱められた薄幸の女性「高橋お伝」【前編】

明治12年(1879年)、後藤吉蔵を殺した罪で斬首刑を言い渡された高橋お伝。29歳だったお伝の美貌は、まだまだ際立っていたことでしょう。

そのため、お伝が辿ってきた薄幸な人生よりも、その美貌に目を向けられた結果、「毒婦」との呼び名がついてしまったのです。お伝の斬首後、お伝のエピソードが脚色されて数々の媒体で描かれるようになりました。


新聞や小説、歌舞伎でお伝の脚色されたエピソードが毒婦ブームを呼び起こします。物語の中で、お伝は「夫を毒殺して男たちを手玉に取った稀代の毒婦」となりました。

明治時代の劇作家・鈴木泉三郎(すずき せんざぶろう)が描いたお伝を題材にした戯曲には、「心の内に悪がねむっていてすこしも外へ出ぬように見せたし」と、お伝を真の毒婦のように表現しています。

お伝は人生だけでなく遺体までも辱められることに

お伝の人生は乱暴に扱われるようになりましたが、お伝の遺体さえ興味の対象となりました。

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