田中角栄「怒涛の戦後史」(19)元官房長官・梶山静六(下) (2/3ページ)
その後、竹下政権が発足したが、やがて竹下派も竹下、金丸、小沢一郎、三者の間で主導権争いに発展した。このとき、梶山は小沢に向かい、「君は、しばらく謹慎しろ」と恫喝もした。
時に、小沢は持論を一切譲らずで怖いものなしだったが、その小沢に「謹慎しろ」などと言えたのは、梶山以外にいなかったのである。
結局、竹下政権は竹下のリクルート事件関与で退陣に追い込まれ、竹下派は竹下系と小沢系に分裂していった。梶山は竹下系に入り、その後の宇野(宗佑)、海部(俊樹)、宮澤(喜一)政権の誕生を下支えした。一方の小沢は、細川(護煕)、羽田(孜)を立てて「非自民政権」を実現させたものの、やがて潰れた。
すると、ここで梶山は一気に橋本龍太郎首相を実現させ、政権を自民党に取り戻してみせたのである。結果、梶山はこの橋本内閣で、官房長官の重責を任されたのだった。
田中や竹下も一目置く頭脳の持ち主であった橋本のもとで、官房長官を務めるということは、梶山がいかに「剛腕」であったかの証しでもあった。
★田中と酷似した歴史観と発想
こうした梶山の行動規範を成していたものは、陸軍航空士官学校での戦争体験が大きかった。その影響で「御国のために何が必要なのかの一点で物を考えていた」(梶山と親しかった政治部記者)という。
ために一時は「商工族」だった梶山は、原発推進政策の旗を振ったこともあったが、茨城県東海村で「臨界事故」が発生したのを機に原発安全神話を危ぶみ、原発行政の見直しに転じている。これもまた、原発が決して御国のためにならないとの信念からであった。
また、橋本内閣で官房長官を務めた当時、中国の軍事演習で台湾海峡が緊迫し、自民党内から集団的自衛権行使の「検討」案が出たときは、戦中派としての歴史観から、平和国家を守るための強い意思を表明したものだった。
例えば、次のような発言もあった。
「多少の犠牲はやむを得ないという暴論は、私はやっぱりダメだ。戦争体験というのは、じつにいやな体験ですから」(『週刊朝日』平成6年12月16日号)。あるいは「我々が自らの武力で、外国に自分の意思なり何なりを押しつけることはしない。