田中角栄「怒涛の戦後史」(19)元官房長官・梶山静六(下) (1/3ページ)
全国最年少の議長として茨城県議会でその辣腕ぶりが轟いていた梶山静六に、田中角栄は自ら目を付け国政入りさせた。その後、梶山が衆院議員となってわずか3年目、第2次田中内閣では首相への登龍門とも言われる内閣官房副長官ポストに就けている。
権力の絶頂にあり、怖いものなしだった田中は、梶山をこう評していた。
「ワシの寝首をかく奴がいるとしたら、それは梶山を置いてない」
梶山の秘めた政治家としての能力の高さに、期待と半ば警戒感さえ抱いたということだった。田中派の中で、その度胸を武器に「調整役」として異彩を放っていた金丸信(元自民党副総裁)でさえ、多士済々の派内を見渡し、やがての政治リーダーの出番について、こう唸ったものだった。
「平時の羽田(孜・元首相)、乱世の小沢(一郎・現国民民主党衆院議員)、大乱世の梶山だ」
梶山はそれくらいの逸材だったが、田中が病魔に倒れ、これを機に事実上の政治生活を閉じるまでは、野党対策などで徹底的に田中を支え続けた。田中に恭順、もとより「寝首をかく」ことなど思いもしなかったのである。
しかし、田中が倒れたあとは一変、その存在感を存分に見せつけたのだった。実は、その“下地”は、田中が健在の頃から見られていた。
田中がロッキード事件を抱えていることで、田中派から総裁候補を出すことができなかった当時、梶山は田中の信頼が厚く「合わせ鏡」とまで言われた二階堂進を、田中派からの総裁候補に担ぐ動きを見せたことがあった。このときは田中の説得によって、最終的に二階堂が断念した。
そうした中で、今度はいよいよ田中派幹部の竹下登が田中の反対を押し切る形で、田中派の“派中派”として「創政会」の立ち上げに動いた。この多数派工作に、梶山は率先して汗を流したのである。
こうした一連の動きは田中の逆鱗に触れたが、梶山としては「総裁候補をいつまでも出せないような派閥では、早晩、衰退せざるを得ない。そのことは逆に、田中(角栄)先生の再起を完全に封じ込めることになる」との思いがあった。
一方で、こうした田中の機嫌を損ねることも辞さずの動きをしたことで、梶山が「武闘派」の異名を頂戴したのもこの頃だった。