平和や幸せを願う宗教が戦争やテロを生み出す。劇薬と良薬を併せ持つ宗教。 (2/3ページ)
現実を超え、その先へ、つまり「死」の向こう側へと導いてくれるのが宗教の役割である。そう考えると殺人の正当化は決して難しくはないのも事実だ。現実とは「生」のことであり、超えるとは否定することでもある。「超現実」は「生」の否定にもつながるのである。
■浄土のパッション
このような過激な側面は仏教の中でも呪術的、神秘主義的な密教により顕著ではあるが、宗教そのものが現実を超えた「超現実」の価値観である以上、どの宗教・宗派にも内在している。「超現実」は「死」に対応するための手段であり、同時にこの世界への不平不満、生きる苦しみに悶える人達にとっても救いの道でもあった。
呪術や神秘主義を否定するなど密教と対極にあり、現実逃避のイメージがある浄土系においても「超現実」の論理が爆発したことがある。一向一揆がそれである。彼らは極楽浄土に往生できるのだから死を恐れない。「南無阿弥陀仏」を唱えながら、死を恐れず向かってくる一向衆の姿は、迎撃する武士たちにとっては狂気の沙汰であり不気味で恐ろしい存在だっただろう。
現実逃避というと自殺や引きこもりなど弱いイメージを持ちがちだが、彼らは現実を逃避しているからこそ強かったのである。彼らの現実逃避とは文字通り現実を超えることであり、「南無阿弥陀仏」の六字の下、彼らのパッションは激しく爆発したのだった。
■禅の爆発
宗教学者・町田宗鳳によると宗教の根底は「狂い」であり「爆発」である。芸術や文学の世界にもそういう面があり、歴史に名を残すような者の作品にはある種の狂気の爆発を見出すことができる。密教も浄土系仏教も「超現実」の世界に足を踏み入れることで「爆発」し、一般常識とはかけ離れた行動に出る可能性を有している。実際その爆発のベクトルが、密教を殺人という闇に落とし、浄土系仏教を自殺に近い戦いへと駆り立てた。
(社会的・政治的には)比較的静かな印象がある禅もまた激しい。有名な公案(禅問答)に「南泉斬猫」がある。中国・唐代の高僧・南泉の弟子たちが子猫を奪い合っていた。そこに現れた南泉は猫を取り上げ、弟子たちに一言を求めた。そしてその一言を言うことができれば猫は助ける。言えなければ猫を斬ると叱りとばした。