平和や幸せを願う宗教が戦争やテロを生み出す。劇薬と良薬を併せ持つ宗教。 (3/3ページ)
結局誰も答えられず、南泉は猫を斬ってしまった。その晩、一番弟子の趙州が帰宅し、南泉からこの話を聞いた。すると趙州は履いていたぞうりを脱ぎ、黙って頭の上にのせて部屋を出て行った。これを見た南泉は「おまえがあの場にいれば、猫を救うことができたものを」と嘆いた。
一体何事かと思うだろう。禅では行くも引くもならないダブルバインド(二重拘束)の状態に追い込み、常識を爆発させることで悟りを得ようと目論む。趙州は常識を超え現実を超える解答を出したといってよい。いずれしろそこには日常生活を営む普通の人間には理解できない異常といってよい価値観が展開されている。
■持つべき認識
殺伐とした話が続いたが、宗教が現実世界を超える論理を提示している以上、現実と齟齬をきたすのは当然であるし、そういう形でしか宗教は成り立たない。現実世界に立脚したものは思想、倫理、道徳であっても宗教とは言わない。宗教の対象は死である。死は現実には存在しない。現実を超えるもの、超越的存在である。宗教もまた現実を超えなければ意味はない。現実を超克する論理があるから死を乗り越えられるのだ。
宗教やスピリチュアリティは、人間が有限な存在である限り要請せざるをえないものである。しかしこれまで述べたように危険な一面もある。葬儀や法事くらいしか触れる機会がない、特別な信仰を持たない者にとって、宗教にはオウム事件のような凶悪犯罪を生み出すこともある劇薬が含まれていることを認識しておくべきだ。同時にそれほど強烈な劇薬だからこそ、死の恐怖や生の迷いから我々を救ってくれる良薬にもなるのである。
■参考資料
■正木晃「性と呪殺の密教」ちくま学芸文庫(2016)