特集「戦国武将の父」【武田信玄編】信虎が息子に追放された“真の理由” (2/3ページ)
こうして甲斐平定を前進させた信虎は永正一六年(1519)、守護所を石和館から府中の躑つつじ躅ヶ崎(甲府市)に移転。以降、甲府が甲斐の中心となり、信虎は館の周囲に、国衆らが家族で住むための屋敷地を与えた。これは家族を人質とするためだった。
信虎はこうして戦国大名への道を歩み始めたが、その矢先に危機が到来。大永元年(1521)、福島正成(前出)と中心とした今川勢が再び甲斐に入り、大軍を率いて甲府に向けて進軍すると、平定の途上だった信虎は二〇〇〇の兵しか動員することができず、懐妊中だった大井夫人を躑躅ヶ崎の館から要害山城(甲府市)に避難させなければならなくなったのだ。
それでも信虎は、信玄が同年一一月に要害山城で生まれる直前、飯田河原(同)で今川勢を蹴散らして最大の窮地をしのいだ。
その後、享禄四年(1531)に栗原信友ら国衆による大規模な反乱が勃発し、これを韮崎近郊で破って壊滅させると、もはや国内に敵はなく、甲斐はようやく統一された。
だが、信虎はその後も安寧した日々を過ごすことはなく、今川勢の他、小田原の北条氏と対立。その北条と関東で睨み合う扇谷上杉朝興が武田家を頼りにし、娘を信虎の嫡男(信玄)に嫁がせたが、まもなく彼女が病死したことで、公卿である三条公頼の娘が二人目の正室として迎えられた。
一方、今川家はその頃、氏親の嫡男である氏輝の代で、彼が天文五年(1536)に亡くなると、弟二人の家督争いが内戦に発展する。信虎が支持した栴岳承芳(還俗して今川義元)が勝つと、その翌年に娘(信玄の姉)を嫁がせ、武田と今川の争いに終止符が打たれた。
■実父の追放には大飢饉の発生が関係か
また、信虎は国衆による前述の反乱が起きた際、自身を揺さぶった信州諏訪家の当時の当主である頼重にも娘(信玄の妹)を嫁がせている。
今川だけでなく、諏訪とも同盟した信虎は諏訪頼重とともに信州小県郡の海野棟綱を攻め、佐久・小県郡を手に入れた。海野棟綱の子(孫説もあり)の真田幸隆は後に信玄に仕えることになるが、当時は上野国に亡命している。