特集「戦国武将の父」【武田信玄編】信虎が息子に追放された“真の理由” (1/3ページ)
名だたる戦国大名が輝かしい成果を残すことができたのは、それぞれの家に歴史の積み重ねがあったからこそ。そこで今号から四回、著名な戦国武将の父に焦点を当てる。
第1弾は武田信玄の父である武田信虎。子(信玄)に国を追われた武将として戦国史に不名誉な記録を残した。
信虎は通説によれば、(1)月ごとに一三人の妊婦の腹を裂き、胎児の発育状態を調べた、(2)家老の山県、馬場、内藤、工藤ら三七人を手打ちにした、(3)僧六〇余人を焼き殺した という悪逆非道の暴君で、家臣や領民に忌み嫌われて信玄が断腸の思いで追放したとされる。だが、近年は父の追放という信玄の行為を正当化するために実像が歪められた、という話に落ち着きつつある。
その信虎(当初は信直)は明応三年(1494)生まれ。父の信縄が異母弟の油川信恵と家督を争った関係から、その死後にまず、この叔父を排除しなければならなかった一方で、武田家が守護職の甲斐国に自立した国衆が割拠していたことから、ここを平定する必要があった。
こうした中、信虎が中心部(国中)と山塊で隔たる郡内地方の小山田信有を下し、姉を嫁がせて姻戚関係を結ぶと、その動きを警戒した上野城(南アルプス市)城主の大井信達が、駿河の今川氏親と関係を結んだ。
永正一二年(1515)、氏親が甲斐に送った福島正成が勝山城(甲府市)に入ると、信虎は信達の居城である上野城を攻めたが、その周囲は泥地で足場が悪く、騎馬武者はことごとく討ち取られて敗走した。
以降、両軍の睨み合いが続いたあと、今川勢が当時、甲斐の守護所があった石いさわ和館(笛吹市)に攻め寄せ、信虎は恵林寺(塩山市)に逃れて九死に一生を得、態勢を挽回。今川勢は勝山城に引き、信虎による兵糧攻めの結果、正成が氏親に泣きつき、双方が和睦した。
なお、その労を取ったのが著名な連歌師の宗長で、今川勢が駿河に撤兵したあと、信虎は和睦の証として信達の長女を正室に迎え、大井夫人と呼ばれた彼女が武田晴信、のちの信玄を生んだ。