一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】 (2/6ページ)
当然、国際法違反に怒ったアメリカ&フランスによる報復攻撃(同年6月)を受け、果敢に抗戦するも軍艦を撃沈され、砲台も破壊&一時占拠されるなどの被害を出してしまいます。
それでも攘夷を諦めない長州藩は総力を挙げて軍備を再強化し、どさくさに紛れて関門海峡の対岸である小倉藩(現:福岡県北九州市)の一部まで占領し、こちらにも砲台を築いて海峡封鎖を強化。リベンジを期したのでした。
そんな報せを受けた京都では「文久の政変(八月十八日の政変。同年8月18日)」が起こって攘夷派の公卿7名(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉)が朝廷から追放されてしまいます。いわゆる「七卿落ち」ですが、在京していた経幹は彼らを護衛して長州まで送り届け、岩国に帰還しています。
攘夷を続行する以上、欧米列強との再戦は避けられないし、京都から長州勢力が一掃されてしまったため、政治的にも不安定な情勢が続く……長州藩にとって、文久三年は大きなターニングポイントとなった一年でした。