一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】
前回のあらすじ 一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】
時は江戸時代末期、長州藩(主君・毛利家)の柱石として治政に手腕を発揮し、各地を奔走していた岩国領主・吉川経幹(きっかわ つねまさ)は、米海軍提督ペルリの「黒船来航(嘉永六1853年6月)」を目の当たりにして衝撃を受けます。
欧米列強に対抗できる人材育成を急ぎながら、着々と迫りくる幕末維新の嵐を感じずにはいられませんでした。
欧米列強との戦争に京都の政変……攘夷の風雲吹き荒れる文久三年さて、文久三1863年5月、35歳となっていた経幹は幕命によって朝廷警護のために上洛、堺町御門の警備に当たっています。その功績なのか、この頃から「監物(けんもつ)」の官位で呼ばれています。
同じころ(同年5月)、国元では長州藩が幕命によって攘夷(外国人に対する武力排除)を決行、馬関海峡(下関)を封鎖して航行するアメリカ・フランス・オランダの船舶に対して無通告で砲撃しました(下関事件)。
当然、国際法違反に怒ったアメリカ&フランスによる報復攻撃(同年6月)を受け、果敢に抗戦するも軍艦を撃沈され、砲台も破壊&一時占拠されるなどの被害を出してしまいます。
それでも攘夷を諦めない長州藩は総力を挙げて軍備を再強化し、どさくさに紛れて関門海峡の対岸である小倉藩(現:福岡県北九州市)の一部まで占領し、こちらにも砲台を築いて海峡封鎖を強化。リベンジを期したのでした。
そんな報せを受けた京都では「文久の政変(八月十八日の政変。同年8月18日)」が起こって攘夷派の公卿7名(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉)が朝廷から追放されてしまいます。いわゆる「七卿落ち」ですが、在京していた経幹は彼らを護衛して長州まで送り届け、岩国に帰還しています。
攘夷を続行する以上、欧米列強との再戦は避けられないし、京都から長州勢力が一掃されてしまったため、政治的にも不安定な情勢が続く……長州藩にとって、文久三年は大きなターニングポイントとなった一年でした。
災難続きの元治元年、禁門の変で朝敵にされ、馬関戦争で欧米列強に敗れ……明けて元治元1864年7月19日、京都を逐われた長州勢力が巻き返しを図ろうと家老の福原越後守元僴(ふくはら えちごのかみもとたけ)が来島又兵衛(きじま またべゑ)や久坂玄瑞(くさか げんずい)らと共に決起。
蛤御門の変。御所に対して銃口を向けたことから、長州藩は賊軍となってしまった。
御所の門前(蛤御門、禁門)を主戦場としたことから後に「蛤御門の変(禁門の変)」と呼ばれたこのクーデターは、会津&薩摩の両藩によって鎮圧され、長州藩は「朝敵」とされてしまいます。
朝敵すなわち賊軍ですが、この日本国において天朝様=天皇陛下と朝廷≒日本全国を敵に回した者が(赦される以外で)生き延びた例しはなく、まさに絶体絶命の窮地です。
かくして江戸幕府の主導によって長州征伐の段取りが進められる中、同年8月5日~7日にかけて、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4ヶ国連合との戦争(馬関戦争)が勃発。完膚なきまでに叩きのめされた挙げ句、馬関海峡の要衝である彦島(ひこしま。現:山口県下関市)を占領されてしまいます。
前回は(占領されたが)引き上げてくれたからすぐ取り戻せたものの、今度は賠償の一環として租借(実質的な植民地化)するつもりのようで、彦島に強固な軍事基地でも置かれようものなら、馬関海峡を封鎖するどころか、逆に瀬戸内海の出入りを欧米列強に抑えられてしまいます。
「何としてでも、彦島だけは死守(奪還)しなければ!」
経幹は列強連合軍に対して彦島の返還交渉に臨みますが、関ケ原以来ずっと窮乏している長州藩は要求される賠償金も満足に支払えない上、奪われた領土は無償で返還せよ、なんて条件では、いくら何でも無理があります。
そこへ「どけ、俺が話す」とばかり出て来たのが、奇兵隊の創設者として知られる高杉晋作(たかすぎ しんさく)。彼は長州藩家老・宍戸備前守親基(ししど びぜんのかみちかもと)の養子(宍戸刑部-ぎょうぶ)と身分を騙って連合軍との交渉に臨みました。
馬関戦争の責任はすべて幕府に押しつけ、ひとまず窮地を切り抜けた長州藩だが……「我が長州藩は、あくまで幕命に従って攘夷を決行した(させられた)のであるから、賠償金は責任者である幕府が全額を支払うべき。むしろ我らが幕府に賠償金を請求したいくらいだ」
晋作はその他の条件(馬関海峡の自由通航、石炭や食糧などの提供販売、荒天時の上陸避難、馬関砲台の撤去)には応じたものの、彦島だけは絶対に譲りませんでした。
欧米列強を相手に一歩も退かず、屁理屈とハッタリで窮地を切り抜ける宍戸刑部こと高杉晋作。
「一度租借してしまえば、アヘン戦争に敗れた清(香港、マカオ)の二の舞を演じることになる!」
畏れ多くも開闢(かいびゃく。天地創造)以来、代々の天皇陛下が治(しろ)しめ賜うた日本の皇土を夷狄(いてき=ゑびす≒外国の侵略者)の連中に領(うしは)かせしめてなるものか……そんな尊皇思想を持った晋作は、あらゆる屁理屈をこねくり、ハッタリをかまして彦島の租借を断固拒否。
得られない領土分は賠償金に上乗せしたのか、とうとう連合軍は彦島の租借を諦めたのでした。長州藩としては鐚(びた)一文支払わない=幕府に丸投げした賠償金など、いくら増額しようが痛くも痒くもありません。
かくして、とりあえずは片づいた馬関戦争の後始末ですが、300万ドルという巨額の賠償金をたらい回しにされた幕府は大激怒。
(いえ、その件につきましては高杉晋作とかいう身分の低い者が勝手に決めてしまった事でして……)
などとは長州藩の体面上、口が裂けても言えない経幹らは必死に弁明。のらりくらりと時間を稼ぐ内に、支払期限は刻々と迫ります。
欧米列強は「誰でもいいから、とにかく賠償金を支払え。さもなくば戦闘再開だ!何なら日本全国を相手にしてもいいんだぞ!」と息巻いており、長州藩は「ない袖は振れません。日本が滅ぶならその時は(賠償金を支払わなかった)幕府のせいですからね~」とばかりに開き直ってしまったため、幕府は断腸の思いで賠償金を工面したのでした。
徳川幕府の威信にかけて、長州征伐に臨む一橋慶喜。「日本外史之内」より。
(おのれ長州藩のヤツらめ、朝敵の分際で……!)
幕府はかねてより進めていた長州征伐の計画を着々と進める一方で、経幹らの心労はますます重なっていくのでした。
【続く】
※参考文献:
児玉幸多・北島正元 監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、1994年
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