一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】 (5/6ページ)
むしろ我らが幕府に賠償金を請求したいくらいだ」
晋作はその他の条件(馬関海峡の自由通航、石炭や食糧などの提供販売、荒天時の上陸避難、馬関砲台の撤去)には応じたものの、彦島だけは絶対に譲りませんでした。
欧米列強を相手に一歩も退かず、屁理屈とハッタリで窮地を切り抜ける宍戸刑部こと高杉晋作。
「一度租借してしまえば、アヘン戦争に敗れた清(香港、マカオ)の二の舞を演じることになる!」
畏れ多くも開闢(かいびゃく。天地創造)以来、代々の天皇陛下が治(しろ)しめ賜うた日本の皇土を夷狄(いてき=ゑびす≒外国の侵略者)の連中に領(うしは)かせしめてなるものか……そんな尊皇思想を持った晋作は、あらゆる屁理屈をこねくり、ハッタリをかまして彦島の租借を断固拒否。
得られない領土分は賠償金に上乗せしたのか、とうとう連合軍は彦島の租借を諦めたのでした。長州藩としては鐚(びた)一文支払わない=幕府に丸投げした賠償金など、いくら増額しようが痛くも痒くもありません。
かくして、とりあえずは片づいた馬関戦争の後始末ですが、300万ドルという巨額の賠償金をたらい回しにされた幕府は大激怒。
(いえ、その件につきましては高杉晋作とかいう身分の低い者が勝手に決めてしまった事でして……)
などとは長州藩の体面上、口が裂けても言えない経幹らは必死に弁明。のらりくらりと時間を稼ぐ内に、支払期限は刻々と迫ります。
欧米列強は「誰でもいいから、とにかく賠償金を支払え。