田中角栄「怒涛の戦後史」(21)元防衛大臣・田中直紀(上) (1/3ページ)

週刊実話

 かの田中角栄の一人娘、元外務大臣の田中真紀子の夫、角栄にとっては娘婿が、この田中直紀である。

 絶対権力者として怖いものなしの田中角栄だったが、「じゃじゃ馬」と言われた真紀子への向き合い方と、その結婚過程は、人生で最も冷や汗をかかされた場面と言ってよかった。

 田中とその妻・ハナとの間には、二人の子供ができた。昭和17(1942)年に長男・正法、その翌々年に長女・真紀子である。しかし、田中は自分の跡継ぎとして可愛がった正法が5歳で病死したため、田中家を継ぐ者として真紀子に期待することになる。

 しかし、真紀子はそれまでとは変わり、日本女子大附属中学を卒業するくらいから、父親からの“逃亡”を企て始めた。頭の回転がよく、感受性も人一倍強い真紀子は、父親が家庭を犠牲にして政治家生活に邁進することへの疑念、また、その間には父親の女性問題なども女の直感として知り、「政治は嫌だ」「父を許せない」という気持ちをつのらせていった。

 同大附属高校に進学後、「絶対反対」を主張する田中に米国ハイスクール留学を納得させたのも、こうした父親からの“逃亡”という意味があったのである。

 留学から帰国すると早稲田大学第一商学部に入学したが、真紀子はここで演劇活動に目覚めた。こうした生活の中では、当然、男性との交遊があり、田中としては心配のタネが尽きなかった。真紀子を早く結婚させ、落ち着かせたい田中が、自ら政財官界、新聞記者などから目ぼしい結婚相手を探したのもこの頃である。

 その中の一人に、鈴木直紀という人物が浮上した。時に、鈴木直紀は慶應義塾大学を卒業後、日本鋼管に入って6年目のサラリーマンだった。

 直紀の父親・鈴木直人は戦前の内務官僚で、戦後は全国区から参院議員となり、その後、郷里の福島から衆院議員に転じている。すなわち、吉田(茂)内閣時代から田中と直人は交流があった。

 そのうえで直人が亡くなったあと、直紀の姉の寿美子が新潟県出身者と結婚することになり、ここで田中角栄・ハナ夫妻が媒酌人を務めた。この媒酌人が縁になった形で、半年後、真紀子と直紀が結ばれることになったのである。
 田中は直紀に会うと、いっぺんで気に入った。

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