一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【完】

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一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【完】

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一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【三】

時は幕末、禁門の変によって「朝敵」となってしまった長州藩は、全国諸藩を動員した幕府軍によって東西南北から攻め込まれる「四境戦争(第二次長州征伐。慶応二1866年6月7日~9月2日)」に突入します。

幕府軍10万人に対して3~4千人という絶望的な戦力差を乗り越えて奇跡的な勝利を収めた長州藩ですが、その柱石として主君を支え続けた岩国領主・吉川経幹(きっかわ つねまさ。当時38歳)は、それまでの激務がたたって倒れてしまいました。

国難に次ぐ国難のオンパレード……39歳の生涯に幕を閉じる

【文久三1863年】
5~6月 下関事件(欧米列強への武力行使)
8月 文久の政変(京都で長州勢力の政治的排除)

【元治元1864年】
7月 禁門の変(クーデター失敗、朝敵に)
8月 馬関戦争(欧米列強との武力衝突⇒戦後の和平交渉)
7~12月 第一次長州征伐(戦争回避に奔走)

【元治二⇒慶応元1865年】
1~12月 幕府との交渉(戦争回避に奔走)

【慶応二1866年】
6~9月 四境戦争(第二次長州征伐。死闘の末、防衛に成功)

「やれやれ……」心労の絶えない四年間を振り返る経幹(イメージ)。

こうして振り返ってみると、この四年間というもの長州藩にとっては国難に次ぐ国難のオンパレード。一国の命運がかかったプレッシャーを一身に受けて、経幹がここまで切り抜けて来られたのは奇跡的と言えるでしょう。

そして年も明けた慶応三1867年3月20日。過労の病床にあった経幹は39歳の生涯に幕を閉じたのでした。

死後、吉川家の悲願である岩国藩の初代藩主に

しかし、強力な交渉役(ネゴシエイター)として幕府からも一目置かれていた経幹が死んだと知られたら、その後(朝敵赦免)の交渉に支障が出るかも知れない……そう懸念した長州藩は経幹の死を隠すことに。

13歳になっていた長男・芳之助(よしのすけ)を元服させて吉川経健(きっかわ つねたけ)と改名。父の名代として幕府との交渉に臨みます。

晴れて「朝敵」の汚名を返上した毛利敬親・定広父子。Wikipediaより。

そして慶応三1867年12月8日、毛利敬親・定広父子の官位復旧が決定し、晴れて長州藩は「朝敵」の汚名返上を果たしたのでした(※この時、剥奪された経幹の官位・監物も復帰しています)。

明けて慶応四1868年3月13日、新政府は岩国6万石を「岩国藩」に昇格させ、経幹は(生きているものとして)その初代藩主となったのでした。

(※ついでに経幹は駿河守にも任じられており、討幕に貢献した者たちを厚遇することで、味方の士気を高める狙いもあったことでしょう)

6万石という大身でありながら、かつて関ケ原で(忠義の故とは言え)主君・毛利家を裏切ってしまったために、江戸時代を通してずっと一領主に甘んじ続けて来た吉川家が、ついに諸侯(大名)の仲間入りを果たしたのです。

そして戊辰戦争もひとまず終息した明治元1868年12月28日、経幹は経健に家督を譲って隠居(したことにされ)、明けて明治二1869年3月20日、亡くなってちょうど2年が経った節目で、その死が正式に公表されました。

戒名は有格院春山玄静(ゆうかくいん しゅんざんげんせい)、墓所は洞泉寺(現:山口県岩国市)にあり、今も岩国の人々を見守っています。

エピローグ・岩国藩の消滅

岩国藩の第二代(最後の)藩主・吉川経健。Wikipediaより。

こうして誕生した岩国藩ですが、その後は明治四1871年7月14日の廃藩置県によって消滅(岩国県に改称)してしまいました。

江戸時代を通して二百数十年来の悲願が果たされたのは、たったの3年4か月というごく短い期間でしたが、吉川家そして代々当主の忠義は、不朽の輝きをもって今なお語り継がれています。

【完】

※参考文献:
児玉幸多・北島正元 監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、1994年

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