殉教は命を捨てる行為なのか。あるいは命以上に大切なものが見つかったと考えるか。 (2/3ページ)

心に残る家族葬

司祭たちは苛烈な拷問・処刑が待っている日本への渡航を我先へと名乗りを上げたという。彼らは「死ぬ」気など毛頭もない。福音を説きイエスのために殉教することは「死」ではなかった。彼らには神の国が待っているのである。

■「命より大切なものはない」に対する反論の余地

殉教は現代に生きる我々から見れば狂気に近いかもしれない。同時に考えさせられることもある。自分にとって自分の命より大切なものはないと本当に言いきれるのか。

1977年世界を舞台にテロの嵐を巻き起こしていた日本赤軍が航空機をハイジャック、人質の身代金と勾留中のメンバーの釈放を要求した(ダッカ航空機事件)。福田赳夫総理(当時)は日本赤軍の要求を受けいれ20億円の身代金を支払い、収容していたメンバーを釈放した(超法規的措置)。この対応は海外からは「テロリストの輸出」などの批判を浴びた。この時の福田総理の言葉が「一人の命は地球より重い」である。この後の日本赤軍の活動を見れば海外の批判は正しかった。福田総理は「自国民の命は他国民より重い」と言うべきだった。これはトランプ大統領のアメリカファーストに近いものがあるが、批判するのは難しい。目に見えない人たちより、目に入る親しい人の命が重いのは当然である。儒教では平等愛は現実的ではなく家族が一番大事だとしているがリアルな心情だろう。つまり一言で「命」と言っても単純なものではない。

■自分命と自分の子供の命なら

殉教者のように自分より大切なもののために自分の命を散らすことは狂気にも見えるが、実はそこまで希少なことでもない。例えば自分と自分の子の命の2択を迫られた場合どちらを選ぶだろうか。虐待をするような親でなければ、ほとんどの親は子供を取るのではないか。自分の命と引き換えに子の命を救えるなら多くの親は迷わないはずだ。むしろ子が救えるなら大きな喜びと言えるだろう。それは自分の命を粗末に扱うことにはならない。自分の命より大切なものがあるというだけである。殉教者もまた自分の命より大切なものに自分を捧げた。そこにも確かに喜びはあったのだ。

こうした考えは死の美化を内包し、カルト宗教の洗脳の原因にもなるといった危険性もある。しかし人間は弱いものである。自分自身だけのために何かを行うには限界がある。

「殉教は命を捨てる行為なのか。あるいは命以上に大切なものが見つかったと考えるか。」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る