殉教は命を捨てる行為なのか。あるいは命以上に大切なものが見つかったと考えるか。 (1/3ページ)

心に残る家族葬

殉教は命を捨てる行為なのか。あるいは命以上に大切なものが見つかったと考えるか。

人が死の恐怖を克服できる場面があるとすれば、そのひとつは自分の命以上に大切なものを見出した時だろう。例えば「殉教」はその究極の形である。「殉ずる」ことと命を粗末にすることは何が違うのか。

■中世から近世にかけての日本におけるキリシタン

中世〜近世日本のキリスト教徒「キリシタン」といえば、迫害や殉教など悲劇のイメージを持つ人が多いと思われる。しかし、徳川家康(1543〜1616)が開いた江戸幕府は当初キリスト教を問題視していなかった。時は近世である。社会も安定し倫理も確立しつつあり人の命は決して軽くはなかった。

幕府はキリシタン禁止令を発布したが、事実上は黙認されていた。彼らは表向き、信仰を棄てるふりをするだけでもよかった。社会の安定のために公言せずこっそりやっている分には大目に見るつもりだったのである。

■殉教を選んだキリシタン

しかし彼らは自ら殉教の道を選んだ。後年のキリシタン殉教のイメージは元々は彼ら自身が招いた結果だったのである。イエス・キリストの使徒は、磔刑に処されたイエスの後を追うようにヨハネ以外全員が殉教している。正しい教えを説くものは迫害されるという教えは、仏典の王と言われる「法華経」にも説かれている。キリシタンにとって殉教することは神の教えを正しく歩いている何よりの証明であり、それ故に最高の喜びであった。

■殉教との結びつきが強いキリシタン

キリシタンの殉教への思いは強く、宣教師である司祭ですら信仰の表立った表明をやめるよう説得したほどである。無闇に弾圧を招いて布教の道を絶たれることを恐れたからだ。それでも彼らは探索されてもいないのに、自らキリシタンであることを名乗り、神に感謝しながら拷問に耐え、殉教の愉悦の中で刑場の露に消えた。それほど彼らにとって殉教は魅力的だった。

本場ヨーロッパの宣教師もこれに負けていない。二代将軍秀忠(1579〜1632)の時代になると日本国内のキリシタン弾圧はより苛烈になっていく。1662年の「元和の大殉教」では55人の信者が処刑された。我々が抱く殉教のイメージはこの辺りの時代のものである。それでもヨーロッパから日本を目指す宣教師は絶えることはなかった。

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