特集「戦国武将の父」【織田信長編】尾張統一の礎を築いた信秀の実像 (3/4ページ)
三河戦線については、ここで生まれた徳川家康の父(松平広忠)を取り上げる次号で詳述するとして、今回は美濃戦線の謎に触れたい。
■信長の“尾張統一”は弾正忠家の財力のお陰
通説によれば、信秀は天文一三年(1544)に越前の朝倉勢とともに、守護代・斎藤利政(道三)の居城である稲葉山城(岐阜市)の城下近くにまで攻め寄せた。一説では合わせて二万五〇〇〇の大軍だったともされ、道三はこのとき、籠城と決めて城下近くの村々は織田勢に蹂躙されたものの、日没近くになり、信秀が軍勢を一度、退き始める機会を待っていた。
稲葉山城の城門が開くと、斎藤勢が出撃して、背後から織田勢に攻め掛かった。不意を衝かれた形の織田勢は崩れ立ち、木曽川に逃れて溺死者が後を絶たなかったとされ、信秀は五〇〇〇の犠牲を出して大敗した。
ドラマ『麒麟がくる』では、以上の合戦が天文一六年(1547)の出来事として描かれている。では、一三年と一六年のどちらが正しいのか。
連歌師の宗そう牧ぼくが斎藤勢に大敗した直後に当時、那古屋城にいた信秀を訪ね、それが天文一三年であることから、ドラマの天文一三年説は誤りとなるが、NHKに代わって弁解するなら、各史料から信秀が天文一六年にも稲葉山城を攻めて大敗したと読むことができる。
一方、『信長公記』の記述が年次を欠くために断定できないが、道三は翌天文一七年九月、勝ち戦に乗じて織田方の城になっていた大垣城を攻め、信秀が救援に駆けつけたことから兵を引いた。
すると、今度は信秀の出陣中を狙い、清洲衆(守護代の兵)が古渡城を囲んだという。信秀は当時、三河戦線でも敗れ、美濃戦線では大敗し、尾張国内でも清洲衆が蜂起して窮地に陥った。
そのため、道三と和睦せざるをえなくなり、天文一八年(1549)頃に発病。祈祷や治療の甲斐もなく、失意のうちに四二歳でこの世を去った。これまた、『信長公記』は没年の年次を欠くが、天文二〇年から翌年にかけてのことだろう。