むっちゃカッコいい苗字!明智光秀の家臣・四王天政孝&政実兄弟の武勇伝【上】
日本には30万弱の苗字があるとされていますが、その中には強烈なインパクトを残す苗字も少なくありません。
今回はそんな一人「四王天」政孝(しほうてん まさたか)&政実(まさざね)兄弟の武勇伝を紹介したいと思います。
苗字の由来は四方田⇒四王天四天王(してんのう)じゃなくて四王天(しほうてん)……どうしてそんな苗字を名乗るようになったのかと言いますと、彼らの祖先が武蔵国児玉郡四方田(現:埼玉県本庄市四方田)に住んでおり、鎌倉時代に第83代・土御門(つちみかど)天皇から四方田の姓を授かります。
四方田は「よもだ」と読むことが多いですが、同時に「しほうでん」とも読めるので、いつしか四天王にあやかろうと四王天(しほうてんorしおうてん)の字を当てるようになったそうです。
四天王とは仏教における三宝(仏・法・僧)を四方から守護する神様で、朝廷の守護者として忠義を尽くそうとした彼らの篤い尊皇心が察せられます。
詳細な記録は不明ですが、きっと承久の乱(承久三1221年)では土御門天皇の父・後鳥羽上皇方に与し、一族を挙げて武勇を奮った事でしょう。
そんな祖先の生き方が遺伝子に刻まれたのか、三百年以上の歳月を越えた戦国時代の四王天政孝・政実兄弟も主君である明智光秀(あけち みつひで)に忠義を尽くし、大いに活躍したのでした。
明智光秀の丹波攻めに従軍四王天政考&政実兄弟(※父子という説もあり)が明智光秀に仕えたのは天正三1575年、光秀が織田信長(おだ のぶなが)の命によって丹波国(現:京都府中部および兵庫県北東部)に攻め込んだ時のことでした。
当時、丹波国は波多野右衛門大夫秀治(はたの うゑもんのたいふひではる)が支配しており、氷上郡柏原庄平井村(現:兵庫県丹波市)を治めていた四王天兄弟は、反・波多野派の小領主として光秀に期待を託したのでしょう。
(※祖先は坂東で勢力を伸ばしていたのに、紆余曲折の末こっちに土着したようです)
歌川国芳「太平記英勇傳二十九 四王連(四王天)左可馬頭政高(政孝)」
「明智様、それがし四王天又兵衛(またべゑ)と申しまする。右衛門大夫(=秀治)を討ち平らげる先鋒として、膝下にお加え下され!」
「おぉ、四天王が二人も加わるとは頼もしや。戦果を期待しておるぞ!」
「「ははぁっ(四王天なんだけどなぁ……)!」」
……しかし、波多野方には秀治の盟友(※)で「丹波の赤鬼」「赤鬼悪右衛門(あかおに あくゑもん)」などの二つ名で恐れられた赤井直正(あかい なおまさ)が加勢しており、散々に打ち破られてしまいます。
(※よく「信長の野望」などのゲームでは波多野秀治の家臣みたいに設定されていますが、当時の支配勢力は直正の方が大きく、盟友のような関係と解釈しました)
「これは敵わん。退け、退けっ!」
苦戦を強いられた明智軍は信長の命によって丹波攻めを一度保留、越前の一向一揆(天正三1575年8月)の鎮圧や石山本願寺との戦い(~天正八1580年8月)に転進しながら時機を待っていた天正六1578年、ついに「丹波の赤鬼」直正が先の戦傷によって亡くなったのでした。
【続く】
※参考文献:
松井拳堂『丹波人物志』臨川書店、1987年
高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年
二木謙一 編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年
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