むっちゃカッコいい苗字!明智光秀の家臣・四王天政孝&政実兄弟の武勇伝【下】

Japaaan

むっちゃカッコいい苗字!明智光秀の家臣・四王天政孝&政実兄弟の武勇伝【下】

前回のあらすじ

前回の記事

むっちゃカッコいい苗字!明智光秀の家臣・四王天政孝&政実兄弟の武勇伝【上】

丹波国(現:兵庫県北西部&京都府中部)の小領主・四王天政孝(しおうてん まさたか)&政実(まさざね)兄弟は、宿敵・波多野秀治(はたの ひではる)を倒すため、丹波国へ攻め込んできた明智光秀(あけち みつひで。織田信長の部将)に臣従しました。

しかし、波多野方には「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将・赤井直正(あかい なおまさ)が与しており、四王天兄弟の勇戦も虚しく敗退してしまいまいます。

やむなく一時転進し、他方面(越前の一向一揆や、石山本願寺との戦い)でも活躍していたところ、先の戦傷が因で直正が亡くなったとの報せが届いたのでした。

ついに丹波を攻略!兄弟の連係プレーで宿敵・波多野秀治を捕らえる

直正さえいなくなれば、もはや敵などいない……とは言い過ぎにせよ、丹波の攻略が格段に楽になったのは間違いないでしょう。

「時は今ぞ!者ども、進め!」

「「「おうっ!」」」

時は天正七1579年、光秀らは捲土重来(リベンジ)を期して丹波国へ再度進攻、四王天兄弟も勇戦して高見城(現:兵庫県丹波市)や鬼ケ城(現:京都府福知山市)など、波多野方の城を次々と攻略して行きました。

奮闘する政孝の雄姿。落合芳幾「太平記英勇伝 四王天但馬守政孝」慶応三1867年

そして宿敵・波多野秀治の本拠地である八上城(現:兵庫県丹波篠山市)に攻め込んだ時は、弟・政実が秀治と取っ組み合っているところを、兄・政孝が捕らえるという連携プレーで大殊勲を上げます。

最後の仕上げとして赤井一族の本拠地である黒井城(現:兵庫県丹波市)を攻略したことで、晴れて光秀は丹波平定を果たしたのでした。

その武功によって政孝は但馬守(現:兵庫県北部の国司)の官途(かんど。官位の私称)を許されると共に、福知山城(現:京都府福知山市)の城代として1万石の知行を与えられたのでした。

本能寺の変、三日天下、その後……

そして、明智光秀を語る上で外すことのできない信長へのクーデター「本能寺の変(天正十1582年6月2日)」に際しては、四王天兄弟が二手に分かれて兄・政孝は信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)らの守る二条城(現:京都府京都市)の攻略を担当。

光秀(武智日向守光秀)を折檻していた森蘭丸(茂利蘭丸永貞)。

一方の政実は信長が宿泊していた本能寺の襲撃に加わり、信長の小姓・森蘭丸(もり らんまる。森成利)を討ち取ったと言われていますが、これには異説(政実が討ち取ったのは蘭丸の弟の力丸である等)もあるようです。

かくて各々大殊勲に沸き立ちましたが、その喜びも長くは続かず「三日天下」に終わったのは今日知られる通り……中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉(はしば ひでよし)が急きょ舞い戻って来ると、これを京都・山崎(現:京都府大山崎町)で迎撃。

これが後世に言う「山崎の戦い(天正十1582年6月13)」ですが、この戦闘で四王天政孝は光秀を守って討死。弟・政実に光秀を託しますが、負け戦の混乱ではぐれてしまいました。

「兄者、面目次第もございませぬ……!」

落ち武者狩りによって命を落とした明智光秀。

光秀が落武者狩りによって殺された報せを聞き、政実は名を変えて旧知の青木紀伊守秀以(あおき きいのかみひでもち)に仕官し、秀以の転封に従って越前国(現:福井県)へ移住します。

かつて一向一揆との戦いで兄と共に攻め込んだ越前に舞い戻って来た政実は、やがて秀以が病死すると浪人になったものの、新たに越前へ赴任してきた結城秀康(ゆうき ひでやす。徳川家康の次男)に再び仕官します。

以降はこれと言った活躍も見られず、大坂の陣(慶長二十1615年)では国元の留守居役を命じられます。代わりに出陣した嫡男・四王天孝信(たかのぶ)は大いに武功を上げ、江戸時代に入ると福井藩士として越前松平家に仕え、その血脈を後世に受け継いでいくのでした。

【完】

※参考文献:
松井拳堂『丹波人物志』臨川書店、1987年
高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年
二木謙一 編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「むっちゃカッコいい苗字!明智光秀の家臣・四王天政孝&政実兄弟の武勇伝【下】」のページです。デイリーニュースオンラインは、四王天孝信四王天政実四王天政孝明智光秀戦国武将カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る