義理としがらみで命を落とした戦国武将を祀る博多の吉塚地蔵を調べてみた (2/6ページ)

心に残る家族葬

身長はおよそ197cm、武芸や歌道も巧みな「文武の将」であったが、信義に篤く、臣下や領民に慕われていたという吉實が星野家14代当主となった頃の九州は、戦国の争乱の中にあった。それまでの星野家は、大友氏、龍造寺氏、島津氏と去就を変えつつ、家を守ってきた。しかし、大家(たいか)同士の「勢力争い」の渦に、吉實らが巻き込まれていくことになる。

■当時、勢力争いが活発だった

1579(天正7)年以降、九州圏最大の勢力を誇っていた大友氏の勢力に陰りが生じ始めていた。そこに九州南部の島津氏と、九州北西部の龍造寺氏との間で対立が生じる。しかし1584(天正12)年、龍造寺隆信(1529〜1584)は島津氏と、肥前国(現・佐賀県)を統べていた有馬氏との連合軍に敗れた。そこで島津義久(1533〜1611)は一気に九州制覇を目指し、大軍を率いて進軍を続けた。この状況に大友宗麟(1530〜1587)は1586(天正14)年3月、自力で島津氏に対抗するのは不可能だと判断し、当時の関白・豊臣秀吉(1537〜1598)に謁し、島津討伐を直訴した。大友氏を配下に収めた秀吉は、両者の間に入る形で和平勧告を行うが、島津方は取り合わない。北上を続ける島津軍は同年7月に筑前(現・福岡県)の太宰府に達し、大友方の武将・高橋紹運(じょううん、1548〜1586)が守る岩谷(いわや)城を包囲した。

■星野兄弟はどう立ち回ったか

そこで星野兄弟だが、現在の福岡県甘木(あまぎ)市一帯を拠点としていた秋月種実(あきづきたねざね、1548〜1596)らと共に島津方に従い、一族郎党500騎余りを従えて、太宰府に着陣した。主力の薩摩軍に加え、星野兄弟のような、九州各地からの援軍が総勢5万にも及んだとされる島津軍は7月14日、岩谷城を包囲し、猛攻撃をかけ、降伏を求めた。島津方に450人の犠牲者を出すほど激しく抵抗した紹運だったが、最終的に7月27日に攻め落とされた。

島津方は更に北上し、軍門に降らない立花統虎が立て篭もる立花城(現・福岡県糟屋郡新宮町、久山町、福岡市東区)に迫った。しかし島津方は岩谷城の戦いで疲弊していたことから、和睦開城を求めた。

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