義理としがらみで命を落とした戦国武将を祀る博多の吉塚地蔵を調べてみた (4/6ページ)

心に残る家族葬

秀吉から、「まことに九州第一の武士である」と激賞され、後々まで重用され、筑後柳河を与えられた。幸いなことに統虎こと宗茂は1603(慶長8)年、天下取りに最終的に勝利した徳川家康(1543〜1616)によって、江戸に幕府が開かれてからは、秀吉方に属していたことから、星野兄弟同様、時代の空気に翻弄される格好で、領地を没収される憂き目にあった。しかし智謀に富み、「時代を読む」能力に秀でていたこと、または星野兄弟を供養した功徳だろうか。自刃や謀殺などといった非業の死を遂げることなく、柳河藩に返り咲き、初代藩主となったのである。

星野吉實・吉兼を祀った吉塚地蔵堂だが、明治〜大正〜昭和〜平成〜令和と時を経、「吉塚」のみならず、「日本」そのものが大きく変貌を遂げてきた今もなお、地域の人々に守られる形で、毎月24日が祭礼、5月・7月・10月には大祭が行われるなど、鎮魂の祈りが捧げられている。

■義理やしがらみで亡くなった人に対する他者からの目

義理やしがらみに縛られ、自分だけが企業などの組織における汚職などの「疑惑」、または過失や失態そのものをたったひとりで背負い込む格好で自殺したり、失踪してしまったりする人は少なくない。

特に後者の場合は、その人の生活圏から遠く離れたどこかの山奥などで命を終え、誰にも発見されることもなく、土に還ってしまっている場合もあるだろう。そうした人々が迎えざるを得なかった理不尽な死を、今現在生きている我々が、あれこれと「評価」することは、決していいことではないのかもしれない。

■供養されていることが何を意味するか

しかし「吉塚」と名前が残り、供養が今なおなされているということは、吉實・吉兼兄弟の一生は、虚しいものだったとは言えないのではないか。もちろん、義理やしがらみを大切にすることよりも、自分を守ることだけを考え、どんな「汚い」「ずるい」ことをしてでも、ふてぶてしく生き延びることが「いい」という考え方もある。

しかもそういう人であっても、後々、時と場合によっては、「智将」「臨機応変」「融通無碍」「深慮遠望の人」などと褒め称えられたり、更には地名にその名を残し、塚や地蔵堂などが建立されたりして、地域の人に供養され続けることもあるだろう。

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