映画やドラマで取り上げられる「吉原炎上」吉原遊郭の歴史は火災の歴史でもある

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映画やドラマで取り上げられる「吉原炎上」吉原遊郭の歴史は火災の歴史でもある

吉原の歴史は火災の歴史

男女の悲喜こもごもが展開された吉原遊郭は、これまで多くの映画やドラマ、小説などのテーマに取り上げられてきました。

歌川広重「新吉原仁和歌之圖」

その中でも吉原の終焉を描いた『吉原炎上』は、吉原に生きた女性たちの生きざまが感動を呼び、映画・舞台・TVドラマでそれぞれ話題を集めてきました。

『吉原炎上』のクライマックスで吉原を壊滅させた大火災は、1911(明治44)年の浅草で起こった大火でしたが、当時の江戸→東京は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど火事が多いことで知られていました。

吉原もそれらと無縁では済まず、まさに火災とともに歴史を歩んだのでした。

明暦の大火から始まった「新吉原」の歴史

現在私たちが「吉原遊郭」と呼んでいる場所には、「元吉原」「新吉原」の2つがあります。江戸時代初期に幕府公認の遊郭ができた「元吉原」は、現在の日本橋人形町にありました。

この地域は1657(明暦3)年に「振袖火事」と呼ばれた明暦の大火で大きな被害を受け、それを機に現在の台東区日本堤に移転したのが「新吉原」です。

「新吉原」へ移転後も、吉原は何度も火災に見舞われました。その回数は、1866(慶応2)年までの191年間でなんと22回!まさに「火災とともに歩んだ歴史」だったのです。

1866(慶応2)年の大火の被害は吉原が全焼するほどとなり、これ以後吉原遊郭は衰退に向かっていきます。吉原の歴史の終わりは「売春防止法」が施行された1957(昭和32)年でしたが、その頃には既に全盛期の栄華は失われていました。

吉原を何度も襲った火災の原因は、遊女への待遇のひどさ?

火事が多かった江戸とはいえ、ここまで吉原が何度も火災の被害に見舞われた原因は、いったい何だったのでしょうか?

1855(安政2)年に関東地方南部を襲った「安政江戸地震(安政の大地震)」による出火など、天災によるものももちろんありました。しかし「梅本屋事件」のように、楼主の虐待に怒った遊女たちによる放火も決して少なくはありませんでした。

この事件は、梅本屋の遊女が楼主からの折檻により死亡し、他の16名の遊女たちが店に放火した上で番所に自首し、楼主の日頃の虐待を訴えたものです。

遊女たちと深い関わりがある東京都台東区の吉原神社/画像出典:Photock

楼主には家財没収・遠流という刑が下されましたが、このようなひどい仕打ちを日常的に受けていた遊女や遊女見習いの少女たちが耐えかねて店に放火した例は、他にも何件かありました。

当時、放火は死罪となる大変な重罪でしたが、遊女へのひどい扱いは江戸幕府も知るところだったのでしょう。
放火をした遊女たちには死刑ではなく、流刑や押し込め(幽閉)などの刑が言い渡されています。

参考
・『浮世絵に見る江戸吉原』佐藤要人:監修 藤原千恵子:編/河出書房新社
写真と新聞記事で見る「吉原炎上」
日々 遥か/吉原遊女の反逆
Wikipedia/吉原遊郭

アイキャッチ画像
八百屋お七(月岡芳年 画)

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