『巨人の星』も顔負け! 長嶋茂雄&王貞治「苦難と栄光の歴史」 (3/5ページ)

日刊大衆

野球部の寮のある東長崎から、池袋の砂押監督の家までは、歩いて1時間程度だった。そこを砂押は走って来いという。ノルマは20分。バットを片手に3人が寮を出ると、マネージャーが「今、出発しました」と、砂押監督に電話を入れる。すると監督は、ストップウォッチのスイッチを入れて、3人を待ち受けていたというから、たまらない。練習を終えて寮に帰るときもランニングだった。

 バッティンググローブなどない時代。素手でバットを振っていると、手の皮がむけて練習できなくなるので、軍手で素振りした。軍手も摩擦で熱くなるため、軍手を氷水の入ったバケツに浸してから素振りした。3人は軍手が乾くとまたバケツに浸し、繰り返し素振りしたという。「みな、手の感覚がなくなってしまい、練習後に女房が出すお茶をつかめないほどだった。よく耐えていたなと感心しますよ」

 立大を去ったあと、砂押監督は、こう本音を語っている。

 しかし、砂押監督と長嶋の師弟関係は突如、終わりを告げる。砂押監督があまりに厳しい練習を課すため、一部の部員と反砂押派のOBが結託した“クーデター”に遭い、辞任に追い込まれたのだ。長嶋が2年生の秋のことだった。

 立大野球部を常勝軍団に育てた砂押監督は、その後、日本鉱業日立、国鉄スワローズで指揮官を務めたあと球界を去り、ゴルフを趣味にした。ゴルフは決まって北海道でやった。実は、巨人の北海道遠征のときに必ず、長嶋と食事を楽しんでいたんだとか。アテンドしたのは、立大OBの小野秀夫だった。「御大(立大野球部OBは砂押監督をこう呼ぶ)は、いつも楽しそうだった。鬼の形相だった立教時代とは別人でしたね」とは長嶋の弁。楽しかったのは長嶋も同様で、信頼する恩師に、「監督さん、インコースがうまくさばけなくて……」と、アドバイスを求めたりした。砂押も、「君のような大打者に恐れ多いことだけど……」と前置きして、熱心にアドバイスしたという。「2人の師弟関係は美しかった。ずっと、師弟のまま続きました」と、小野は語った。

■卓球のやりすぎで球威が落ちた

 名門の早稲田実業高校野球部に入部するや、即レギュラー。1年の秋からは新チームで“エースで4番”を任され、2年の春の選抜では優勝。

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