長嶋茂雄「六大学新記録と南海を逆転した巨人スカウト陣の秘策」

日刊大衆

写真はイメージです
写真はイメージです

 日本中のファンが長嶋の新記録達成を期待する中、見事、最終戦でバットから快音が響いた。“天性のスター”の青春。

「コロナウイルス禍で緊急事態宣言も出された今、プロ野球どころではないだろう。国内の感染拡大が終息し、世論がペナントをよしとしなければ、開幕は迎えられない」(球界関係者)

 3日に12球団の代表者が集まり、遅れている今季開幕の日程について話し合いが行われたプロ野球。「結局、4月末か5月の初旬に、そのときの状況を考慮したうえで、日程を再協議することでお開きになりました。要は何も決められなかったということです」(スポーツ紙デスク)

 会議では、交流戦とオールスター戦の中止、CSの中止も俎上に載せられたという。最悪の場合、無観客で試合を行う案も浮上しているが、これについては、「客商売である以上、無観客は経営の根幹に関わるので、絶対に避けるべき」(セ・リーグ球団関係者)という意見が根強いようだ。「球場を満席にせず、離れて座ってもらうなどの案も出ていますが、どの球団の代表も終始、険しい表情でした」(前同)

 早くても、6月中の開幕になることが予想されるプロ野球。テレビでも過去の名試合を再放送するなどして、ファンの期待に応えようとしているが、一寸先は闇と言えるだろう。今号も長嶋茂雄(84=巨人軍終身名誉監督)の秘話を紐解いてみたい(以下、文中=敬称略)。

■立教大学に入学

 昭和29年、立教大学に入学した長嶋茂雄は、野球部のレギュラーとして、さっそく東京六大学野球の春のリーグ戦に出場した。立東(立大VS東大)1回戦。試合途中から三塁の守備に入った長嶋は、2打数ノーヒット。これが大学リーグのデビュー戦だった。この日、1年生で出場したのは長嶋だけだった。

 初めてのリーグ戦では、11試合に出場して17打数3安打1打点に終わったが、5月下旬に長嶋の父親から手紙が届いたという。「頑張って、もっと練習に励まなければダメだ」

 手紙は息子を叱咤する内容だったというが、長嶋は一読して、「なんだか、いつもの父らしくないな……」と感じたという。長嶋の不吉な予感は的中した。リーグ戦が終わった6月2日の練習中に、「チチキトク」の電報が届いたのだ。新人リーグ戦が始まる6日前のことだった。

 父の利さんは、帰らぬ人となった。葬式をすませ、寮に戻ってきた長嶋は、新人戦で3番を打ち、5試合で22打数5安打。悲しみに耐え、活躍を見せた。

 長嶋が大器の片鱗を見せたのは、2年生の秋のリーグ戦のことだった。早立(早大VS立大)戦の1回戦。早大のエース・木村保(のちに南海入り)から、レフトの芝生席に弾丸ライナーを叩き込んだのだ。長嶋の六大学リーグでの初ホームランだった。この日、長嶋は初めて4番を任されたが、このとき、恩師の砂押邦信監督の姿はなかった。野球部でクーデターに遭い、監督を退いていたからだ。

 秋のリーグ戦、長嶋は3割4分3厘で3位の成績を残した。その活躍が認められ、12月10日からマニラで行われた第2回アジア野球選手権の六大学選抜チームに選ばれる。この大会で長嶋は打率5割、長打率9割5分8厘と打ちまくり、一躍、六大学を代表するスラッガーへと成長した。

 才能を開花させた長嶋に、プロ野球のスカウトも注目するようになっていった。当時、立大野球部のグラウンドがあった東長崎(東京都豊島区)はもちろん、千葉の臼井(現在の佐倉市)の実家にも、スカウトが日参するようになった。3年生の春には初の首位打者(4割5分8厘)。秋にはホームランを3本打って、立大野球部の新記録(通算7本)に迫った。プロスカウトの長嶋争奪戦も、激化の一途をたどっていった。

 巨人は長嶋の兄の武彦に食い込んでいた。阪神は立大OBの佐川直行スカウトが、足繁く東長崎のグラウンドを訪れていた。実は、長嶋は幼少の頃から阪神ファンだった。「物干し竿」と呼ばれた巨大バットでホームランを量産した、藤村富美男に憧れていたからだ。

 大映のオーナー・永田雅一は、夫人を臼井の長嶋宅に派遣している。乗ってきたベンツを家の前には停めさせず、電車できたように見せるなど、長嶋家に配慮させたという。永田夫人は、「成田山(新勝寺)にお参りに来ました。そのついでと言っては失礼ですが」と、突然の訪問を詫び、永田の思いを伝言したという。“永田ラッパ”と呼ばれていた永田は、その横紙破りな行動力で有名だった。千葉の片田舎にあった長嶋家を電撃訪問したのも、いかにも永田らしい作戦だったと言える。

■副キャプテンを務めた長嶋

 最上級生になった長嶋は、副キャプテンを務めた。キャプテンには、しっかり者だった本屋敷錦吾(のちに阪急に入団)が、満場一致で選ばれていた。六大学のタイ記録に並ぶ通算7号ホームランは、4月14日の法立(法大VS立大)2回戦だった。3回一死一塁、左腕の水津正のカーブが高めに入ってきたところを振り抜き、バックスクリーン左横の中段に突き刺さる大ホームランを放った。立大は長嶋の活躍もあって、勝ち点5で完全優勝を果たしている。

 学生生活最後となる秋のリーグ戦では、新記録となる8号ホームランの期待が高まった。ところが長嶋は、3カードを終えた時点で21打数3安打、打率1割4分3厘と、大学入学以来、最大のスランプに陥っていた。「あのカメラ、止めてもらえませんか……」 長嶋は親しい運動部の記者に、こう懇願している。

 実は、『報知新聞』(現『スポーツ報知』)では、長嶋の記念すべき第8号ホームランの瞬間をキャッチするため、秋のリーグ戦が始まってから長嶋の全打席を追っていた。一塁側のカメラ席から、特注のアイモ改造カメラ(1秒間に120コマ撮影できた)で狙っていたのだ。当時の六大学リーグ戦は、プロ野球の試合以上に人気があり、特に立大の試合は神宮球場が満員になり、盛大な応援がチームを盛り上げていた。球場には絶えず大歓声が響いていたのだが、長嶋はアイモの作動する「ジー」という音が気になって仕方なかったようだ。

 しかし、そこは天性のスーパースター・長嶋である。4カード目の明立(明大VS立大)1回戦、長嶋は明大の3投手から5打数5安打と打ちまくり、一気に打率を3割に乗せると、最終カードの慶立(慶大VS立大)2回戦まで3割台をキープ。この試合に勝てば立大が優勝、春秋連覇となる。5回表、長嶋に打席が回ってきた。〈狙い球を絞ったわけではありません。ストライクが来れば打ってやるとバットを構えた。内角低めのカーブをすくい上げると、打球はレフトスタンドにライナーで飛び込みました〉(『読売新聞』インタビューより)

 タイ記録達成から88打席目で記録更新。大学通算第8号ホームランだった。〈一塁ベースを回ったところで、打球がスタンドに入ったのがわかりました。頭の中はもう真っ白で、舞いあがりながらベースを一周しました〉(前同)

 三塁ランナーコーチの浅井靖と、途中まで肩を組みながらホームインした長嶋。実はこのホームラン、浅井のバットを借りて打ったものだった。「気分転換で浅井のバットを借りた」というから、いかにも“ひらめきの人”長嶋らしい。浅井のバットはいわゆるタイカッブ型で、長嶋はほとんど使ったことがなかった。

 終わってみれば、3割3分3厘で2度目の首位打者。2度の首位打者は、戦後初の快挙だった。長嶋は、立教大学野球部史に、こう寄稿している。〈あのシーズンは8号ホームランのことで頭がいっぱいで、その焦りのためかヒットがなかなか出なかった〉

 ファンやマスコミの期待を一身に受けた長嶋。8号の重圧は、想像を絶するもだったのだろう。ちなみに、現在の東京六大学の通算ホームラン記録は、高橋由伸の23本。その前は田淵幸一(22本)だった。これと比べると、長嶋の8本はかすんでしまうように思えるが、さにあらず。「当時の神宮は両翼が10メートルも遠くて、左中間、右中間とも広かった。しかも、ボールはあまり飛ばなかった。8本がいかにすごいか分かる」(古参記者)

■できれば巨人でやりたい

 話をプロスカウトの長嶋争奪戦に戻そう。西鉄、国鉄以外の10球団がしのぎを削った長嶋争奪戦は、南海が大きくリードしていた。立大で長嶋の2年先輩で、南海に入団した大沢啓二(当時は昌芳)が、東京遠征に来ると東長崎の寮を訪ね、長嶋と杉浦忠を食事に誘い、口説いていたからだ。帰り際には、「門限に遅れちゃいけないから、タクシーで帰れ」と、多額のタクシー代を渡すのが慣例だった。いわゆる“栄養費”である。

 大沢の暗躍で南海がリードしていた長嶋争奪戦だったが、あることがきっかけで雲行きが変わってしまう。昭和32年の夏だった。南海からプロ入りの具体的な条件を提示された際、長嶋も杉浦も愕然としたのだ。大沢から渡されていたタクシー代や、飲み食いした金を契約金から差っ引くというのだ。このセコさに、長嶋も杉浦も、南海への思いが急激に冷めてしまった。2人は寮の隣に住んでいた立大OBの田中稔に相談を持ちかけた。田中は当時、サンケイ新聞のアマ野球担当記者だった。砂押監督とは同期で、昭和22年のチーフマネージャー。立教大野球部の生き字引のような存在で、当然、大沢が動いているのも知っていた。「分かった。南海のことは白紙に戻して、どこに入りたいか自分で考えてみろ」

 すると、長嶋は「できれば巨人でやりたい」と打ち明けた。母親のちよが、「お父さんも死んでしまったし、お前は近くにいてほしい」と言ったからだった。田中は読売新聞の辻野実に相談した。当時、読売のアマ野球担当だった辻野は、巨人フロントの長嶋獲得戦略に疑念を抱いていた一人だった。巨人フロントは、長嶋の兄の武彦を押さえていたが、辻野は「そんなものは空手形になる」ことを知っていた。辻野はスカウト部門の責任者である宇野庄治代表を通り越し、品川主計球団社長に連絡。品川社長の命令で、長嶋の交渉窓口は武彦から田中に変更された。

 以降、“田中ルート”で、長嶋との交渉はトントン拍子に進んでいった。長嶋が巨人と交渉を進められたのは、親友である杉浦の男気もあった。杉浦は大映からも熱心に誘われていた。南海との関係を白紙にしたあと、杉浦の実兄が大映本社で永田オーナーと面談しているが、杉浦は南海入りを決断した。「シゲよ、2人とも南海に行かなかったら鶴岡(一人監督)さんに申し訳ないし、大沢さんの顔も潰すことになる。オレは南海に行くから、シゲは巨人に行け」

 杉浦にこう言われて、長嶋の心は決まった。「スギのひと言は、本当にうれしかった」 長嶋は、平成13年11月に杉浦が死去した際、真っ先に大阪に飛んで行き、杉浦との別れを惜しんだ。長嶋は終生、杉浦への感謝を忘れなかった。

「長嶋茂雄「六大学新記録と南海を逆転した巨人スカウト陣の秘策」」のページです。デイリーニュースオンラインは、長嶋茂雄巨人エンタメなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧