【ニッポン古代史の反乱】ヤマトVS九州豪族「磐井の乱」の首謀者 (2/3ページ)
日本書紀が編纂された奈良時代は天皇を中心に中央集権が進む時代だっただけに、天皇に従わない地方の豪族らの行動は反乱でなければならなかったのだ。
ここで、以上を踏まえて日本書紀を基に事件の経緯を追ってみたい。継体天皇二一年六月、天皇は近江毛野臣という近江の豪族に六万の兵を率いさせ、新羅の勢力が隆盛を極める朝鮮半島への進軍を計画。当時、日本が権益を持つ任那(加羅諸国)の一部を奪った新羅から、その旧領を奪い返すことが狙いだった。
ところが、「筑紫国造磐井、ひそかに叛逆をはかり」とあるように、磐井が毛野臣の軍勢の通行を妨げた。新羅を助けた理由について「(新羅が)ひそかに貨賄(ワイロ)を磐井」に贈ったとされる。だが、これは日本書紀の脚色とされ、磐井は、新羅が日本海に面する「環日本海」という交易のネットワークから親交すべきと考えたのではないか。
一方、ヤマト政権が黄海に面する百済と関係を密にしていたことから、ツクシと朝鮮外交を巡る対立が背景にあったと言えるだろう。
また、謎の一つに磐井が毛野臣に対し、「もともと我ら二人は伴として、肩を寄せ、肘をすりあわせ、同じ食器で食べた仲ではないか」と不満をぶつけるシーンがある。はたして継体天皇の近臣と言える毛野臣と磐井にどこで、そんな接点が生じたのか。その謎を解く鍵は稲荷山古墳(埼玉県行田市)にある。
■ヤマトは二将軍の力でツクシの吸収を画策か
関東地方の豪族の墓で発見された鉄剣銘からは、ワカタケル大王(雄略天皇)の名とともに、「ヲワケ」がその「杖刀人首」(親衛隊長)だった事実が窺える。雄略は継体の少し前の大王。この頃より大王に地方の豪族が近侍していたことになり、磐井も朝廷に出仕し、その際に毛野臣と同じ釜の飯を食べた関係だったのだろう。
そして、このことは独立した存在ながらも、ヤマトとそれ以外の地域が大王を中心に統一に向かいつつあった事実を示す。
誤解を恐れずに言えば、はるか後世の戦国時代の終わり、畿内を制圧した織田信長を中心に天下が動き始めた状況に酷似している。