【ニッポン古代史の反乱】ヤマトVS九州豪族「磐井の乱」の首謀者 (3/3ページ)
そして、織田政権を継承した豊臣秀吉が抵抗勢力を潰したのと同様、継体天皇は「兵事に通えるは、右に出ずる者なし」(『日本書紀』)という物部麁鹿火に自ら斧鉞を与えて九州に送り出した。
麁鹿火は継体天皇二二年一一月、筑紫の御井郡(福岡県久留米市など)で磐井の軍勢と交戦。敵味方の旗や太鼓がどよめき合い、兵による塵埃が巻き上がる中、ヤマトの軍勢が勝利して「ついに磐井を斬りて境を定む」とされる。
ちなみに、『古事記』は物部麁鹿火とは別にもう一人、大伴金村を合わせ、二将軍を派遣したとする。当時、物部と大伴はヤマトの代表的な軍事氏族であり、相手がツクシという大勢力であることを考えれば、磐井との戦いは二人の共同作戦だったはず。
戦後、磐井の子である葛子は父に連座して処刑されることを恐れ、糟屋屯倉(福岡市近郊)をヤマトに献上して許された。彼が日本書紀に「筑紫君」という姓(君)で記載されたことからして、父の地位を引き継いだのだろう。
ヤマトは磐井を葬り去ったあともツクシを征服しようとはせず、吸収する策を巡らせていたのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。