天才テリー伊藤対談「デヴィ夫人」(1)戦争と貧困の経験は神からのギフト
●ゲスト:デヴィ夫人(デヴィふじん) 本名ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ。1940年、東京都生まれ。59年、19歳の時に訪日中のインドネシア共和国独立の指導者・スカルノ大統領と出会い、同年11月ジャカルタで結婚。海外の国家元首の妻となった唯一の日本人となった。60年以降、日イ友好協会名誉会長に就任、両国の文化交流・親善に努める。70年6月、スカルノ大統領死去後はパリに拠点を移し、社交界で「東洋の真珠」とうたわれる。91年、ニューヨークに移住。UNEP(国連環境計画)の特別顧問として活躍。2000年以降は華麗な経歴と浮世離れした独特な存在感で、講演やテレビ出演などを中心に活躍中。
鮮烈な美貌が「東洋の真珠」とうたわれたインドネシア・スカルノ元大統領夫人であり、その強烈なキャラクターや発言が大きな注目を集めるデヴィ夫人。幼少時の誓いから最愛の男性との別れ、そして衝撃のタレント転身のいきさつまで、余すことなく語り尽くした!
テリー デヴィ夫人は今80歳なんですよね。なのに、こんなにパワフルだなんて、ちょっとすごすぎませんか。
デヴィ ええ、まさに奇跡ですね(笑)。
テリー 体調も、まったく問題ないんですか。
デヴィ とにかく私ね、これまで病気をしている時間がまったくなかったんですよ。ずっと働きずくめで、勉強、努力のし続けなものですから。
テリー 倒れている暇がないという。
デヴィ 私にとって、病気になることは贅沢なことですから。年に一度は必ず人間ドックやガン検診に行ってますけど、いつも「どこも悪くない」と。「こんなに高齢だから、どこか悪いはずです」と調べ直してもらっても、やっぱり結果は同じでした。
テリー 病気が贅沢っていうのが、デヴィ夫人ならではの目線だなァ。バラエティー番組のデヴィ夫人しか知らない人も多いでしょうけど、実に波乱万丈な人生を歩んでいる方ですから。
デヴィ よく「デヴィ夫人ってラッキーね。きらびやかなドレスを着て、豪華な宝石を身につけて、今日はパリだ、ニューヨークだって人生を満喫して」って言われますけれど、とっても心外なんです。私は人の3倍勉強して、3倍働いて、3倍努力して、人の3分の1の睡眠でやってきましたから。今でもそうですよ。私自身がラッキーだと思うのは、戦争と貧しさの経験があることだけです。貧しさこそ、神から与えられたギフトですから。
テリー 半生を振り返った書籍「選ばれる女におなりなさい」(講談社)を読むと、特に戦中戦後の生活は大変だったみたいですね。
デヴィ ええ、戦争が終わって、疎開先から東京に戻ってきた時のこともよく覚えています。常磐線で上野駅に着いて、地下鉄で青山に向かうのですが、その際に地下道を通らなきゃならないんです。そこが今の上野からは想像もできないぐらい薄暗くて、浮浪者がいっぱい寝転がっていて臭いんですよ。
テリー あぁ‥‥。
デヴィ そこを通る時、私の着物の袖を引く人がいたんです。「キャーッ!」って声を出したら、それは私より小さい子で、「何かちょうだい」という感じで、こちらに手を出したんです。
テリー そんな光景を見ちゃったら、もう何も言えないですね。
デヴィ その経験から、もし自分を不幸だと感じたなら、自分よりさらに不幸な人のことを思えばいい、と考えるようになりました。この子にはもう親はいないだろうけど、私の家はまだ父と母が生きている。たとえ貧しくても、それはまだとても幸せなことなんだ、と。
テリー 貧しい生活の中、幼いデヴィ夫人はどんなことを考えていたんですか。
デヴィ 満天の星空を見上げて、「いつか外国に出て絶対、歴史に残る人物になるんだ」と思っていました。