田中角栄「怒涛の戦後史」(24)元首相・鈴木善幸 (2/3ページ)
ここには田中がとりわけ親しかった大平正芳が所属しており、この大平を介するかたちで、田中と鈴木の間にも信頼感が醸成されていった。
その後、田中が郵政大臣、大蔵大臣、自民党幹事長と実力者への階段を駆けのぼったのに対し、鈴木もまた郵政大臣、官房長官、農林大臣と着実に要職をこなしてきた。特筆すべきは、その間、自民党総務会長をじつに通算10期もやったことであった。
党三役の一角である総務会長は、党最高の政策決定機関で、総務会の議論は賛否両論が噴出、白熱して収拾困難となることも少なくない。その会長ポストに求められるのは一にも二にも「調整力」で、これを10期もこなしたのだから、田中もこのあたりの“鈴木評価”は的確と言えたのだった。
その後、田中が首相の座に就く頃には、時に大平派の「宏池会」所属ながら、鈴木には「現住所・大平派、本籍・田中派」の陰口も出ていたのだった。それほど、田中との関係はツーカーの仲だったのである。
★「早く芝居の幕を開けろ」
田中が、首相在職中に急死した大平の後継に担いだのが、この鈴木であった。田中とすれば、ロッキード裁判を抱えながらも、鈴木を担ぐことでなお影響力維持に腐心したということだったが、総務会長10期の「調整力」と、首相としての政権運営は、いささか異なるものであった。
まず、鈴木は政権発足に際し、一般には知名度が低かった。「ゼンコー、フー?(善幸とは何者?)」との声も出て、結局、2年半の政権で内政、外交とも見るべき実績は残せなかった。とくに、「政治生命を懸ける」として掲げた行政改革でまったく成果が上げられず、ついには“後見人”としての田中も、鈴木に引導を渡さざるを得なかった。メディアからは、「暗愚の宰相」との声まで出たのである。
田中は彼一流の言い回しで、こう迫ったのだった。
「いつまでも芝居の幕を開けないと、客は帰ってしまうぞ」
早く行革の成果を出さないと、国民は鈴木政権に、早晩、ダメ出しをしかねないという“最後通牒”である。この田中の言葉をもって、鈴木は、さすがに退陣を決断した。プライドもあるが、政権の限界を知ったということだった。