大森荘蔵が主張した「立ち現れ一元論」から考える死者との関係性 (2/3ページ)
いや、具体的な映像ではなくても、何かの痕跡、残滓、残り香のようなものが、脳や心に刻み込まれているではないか。大森はこれも否定する。
■「立ち現れ一元論」ーー記憶は写真ではない
大森は写真を例に取って説明する。ここにAさんの写真があるとする。写真とはAさんを写し取ったAさんのコピー、Aさんの痕跡であるといえる。そして私たちがそれを「Aさんの写真」であることがわかるのは、Aさんそれ自体を知っているからである。
この「写真」をそのまま、「記憶の痕跡」に変換してみよう。記憶の痕跡がかつての出来事を写し取った写真のようなものだとすれば、私たちはそのAさんの写真=Aさんの記憶痕跡をなぜAさんだとわかるのか。事実わかる。「今思い出しているAさんの、さらに昔の記憶があるからだ」と言いたくなるかもしれない。しかしこれだと、そのさらに昔の・・・と、無限に続いてしまうことになる。そんなことをしなくても、わざわざ写真=痕跡など置かなくても、Aさんそのものが現れていると考えてよいのではないか。記憶とは痕跡でも残り香でもない。それ自体が立ち現れている。大森はそう主張するのである。
■立ち現れる死者は死者ではない。その人そのものである。
では、もうこの世にはいないあの人たち。死者が思い浮かばれる時、それは死者の記憶の像ではなく、死者そのものだというのだろうか。そうなのである。私たちの前に立ち現れるあの人は、あの人そのものなのだ。
ーでは死んで久しい亡友を思い出すときもその人をじかに思い出しているのか、と問われよう。私はその通りであると思う。生前の友人のそのありし日のままをじかに思い出しているのである。
その友人は今は生きては存在しない。しかし生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれるのである。その友人を今私の眼や肌でじかに「知覚する」ことはできないが、私は彼をじかに「思い出す」のである。そのとき、彼の影のような「写し」とか「痕跡」とかがあらわれるのではなく、生前の彼がそのままじかにあらわれるのである。