大森荘蔵が主張した「立ち現れ一元論」から考える死者との関係性 (1/3ページ)
私たちは大切な人が亡くなり悲嘆に暮れている時、このような言葉を掛け合う事がある。「あの人は私たちの心の中に生きている」この言葉を比喩でもオカルトでもなく哲学的に考察し、文字通りの事実であるとする考え方があるとしたらどう思われるだろうか。
■自然科学と一線を画す「立ち現れ一元論」
通常私たちは世界を二元論的に認識して生きている。目の前に置いてある本を見て「本が置いてある」と思う。世界は私たちの主観と、客観的な対象に二分されており、外の世界は私たちとは別に存在する。これは当たり前の感覚だろう。この常識的な見方は素朴実在論といい、自然科学は基本的にはこの認識方法に則って構築されている。しかし哲学者・大森荘蔵(1921〜97)はこの二元論的な世界観を反駁する。そして到達したのが「立ち現れ一元論」である。
■「立ち現れ一元論」ーー記憶は映像ではない
記憶について考えてみたい。私たちには記憶というものがある。かつて見た風景、人物、出来事、音楽、また痛みなどの感覚。そうしたものの痕跡、断片が脳に残っており、それらが映像や感覚として、つまり記憶の「像」として蘇ってくると考えられている。脳医学者や生理学者なら、脳には記憶の座があり記憶の痕跡が保存されていると説明だろう。だが、大森はそのような記憶の「像」などは存在しないというのだ。
私たちの心に思い浮かぶ、かつて見たものや聞いたりしたもの。例えば子供の頃に見た東京タワーを思い浮かべるとき、それは東京タワーの記憶が投影された映像ではなく、東京タワー「そのもの」なのだという。大森はこの「そのもの」が直接心に現れる現象を「立ち現れ」と呼ぶ。
■覚えていること想像したこと、それこそがそのもの
映像に絞って考えると、記憶の映像を私たちは「何」で見ているのか。大森によると「記憶に浮かんだ風景は眼に見える映像ではない」。東京タワーをその記憶を頼りに絵に描くとする。しかし曖昧すぎて写真や絵画などを参考にして描くように、細部まで覗き込んで描くことはできないだろう。それでもそれなりに絵は完成するが、それは記憶の映像を写生したものでなく、なんとなく残ってる東京タワー「そのもの」を描いたという方が正しいのではないか。